●歌は、「道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」である。
●歌碑(プレート)は、にある。
●歌をみていこう。
◆美知乃倍乃 宇万良能宇礼尓 波保麻米乃 可良麻流伎美乎 波可礼加由加牟
(丈部鳥 巻二十 四三五二)
≪書き下し≫道の辺(へ)の茨(うまら)のうれに延(は)ほ豆(まめ)のからまる君をはかれか行かむ
(訳)道端の茨(いばら)の枝先まで延(は)う豆蔓(まめつる)のように、からまりつく君、そんな君を残して別れて行かねばならないのか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)うまら【茨・荊】名詞:「いばら」に同じ。※上代の東国方言。「うばら」の変化した語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)うれ【末】名詞:草木の枝や葉の先端。「うら」とも。
(注)「延(は)ほ」:「延(は)ふ」の東国系
左注は、「右一首天羽郡上丁丈部鳥」<右の一首は天羽(あまは)の郡(こほり)上丁(じやうちゃう)丈部鳥(はせつかべのとり)
(注)天羽郡:千葉県富津市南部一帯
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1098)」で紹介している。
この時は植物名は「茨(うまら)」であったが、今回は「まめ」である。
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春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『まめ(ツルマメ)』は草原や路傍などに自生するつる性の一年草で、細い茎を他のものに絡ませたり、自ら絡みあって生育する豆類を示す。現在のどの豆に当たるかを研究者が調べるに、野生のものであろうと推測され『ヤブマメ』・『ツルマメ』別名『ノマメ』や『タンキリマメ』のたぐいであろうといわれている。『ツルマメ』は夏から秋にかけて紅紫色の小花を付け、穂のような花の形になり、やがてサヤを結び、飢餓(キガ)の折にはこれを集めて食用にもしたようだ。『タンキリマメ』は実を煎じて服用すればタンが切れるのでこの名が付いた。」と書かれている。
※「ツルマメ」は「ダイズ」の原種といわれている。
「茨」にからまる「豆」を妻の姿に喩え、離れがたい思いを詠った歌と解釈する本も多いが、伊藤 博氏はその著「萬葉集相聞の世界」(塙書房)の中で、この歌について、「おどけた面はまったくないが、しかも諸注のように妻を指すとみるべきでなく、この防人の仕えていた家の若様とみるのがおだやかであろう。」と書かれている。
その理由として、「『君』とは、もと、首長、君主、主人などの意の名詞であったが、萬葉においては、ほとんど単に敬意を示す対称の人代名詞として用いられている。つまり『君』は、一般に相手への敬称であって、しかも、男から女を称することは、まずない。」と述べられ、根拠として、家持の一四六二歌、笠金村の五四三歌、作者未詳の三二六一歌をあげられている。
一四六二、五四三、三二六一歌をみてみよう。
◆吾君尓 戯奴者戀良思 給有 茅花乎雖喫 弥痩尓夜須
(大伴家持 巻八 一四六二)
≪書き下し≫我が君に 戯奴(わけ)は恋ふらし賜(たば)りたる茅花(つばな)を食(は)めどいや痩(や)せに痩す
(訳)ご主人様に、この私めは恋い焦がれているようでございます。頂戴した茅花をいくら食べても、ますます痩せるばかりです。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
一四六二歌の「君」についてであるが、万葉では、「君」は一般的には相手に対する敬称で、女から男を呼ぶ場合に用いられている。この歌では、男である大伴家持が女である紀女郎を明らかに「君」と呼んでいる。これは、一四六〇歌で、紀女郎が戯れて、「戯奴」と呼んだ歌への答え歌である。すなわち、女郎がわざと家持を卑しんで呼んだことを受けて、逆に、家持は、「我が君」と敬意を込めてウイットに富んだ言い方で切り返しているのである。
このような例外的使用は、問題がないのである。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その196改)」で紹介している。
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次に五四三歌をみてみよう。
◆「・・・紀伊道(きぢ)に入り立ち 真土(まつち)山 越ゆらむ君は 黄葉(もみちば)の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我(わ)れは思はず 草枕 旅によろしと 思ひつつ 君はあるらむと・・・」
(訳)・・・紀伊の道に足を踏み入れ、真土山を越えてもう山向こうに入っただろうが、その背の君は黄葉の葉の散り乱れるさまを眺めながら、朝夕慣れ親しんだ私のことなどは思わずに、旅はいいものだと思っているだろうと、・・・(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)にきぶ【和ぶ】自動詞:安らかにくつろぐ。なれ親しむ。(学研)
題詞は、「・・・紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、従駕(おほみとも)の人に贈らむために娘子(をとめ)に誂(あとら)へて笠朝臣金村が作る歌一首・・・」である。
(注)あとらふ【誂ふ】他動詞:頼んで自分の思いどおりにさせる。誘う。(学研)
このように、「娘子(をとめ)に誂(あとら)へて」と、代作であることが明記されている。従って「君」の使用は、例外的に容認されるのである。
最後に三二六一歌をみてみよう。
◆思ひ遣(や)るすべのたづきも今はなし君に逢はずて年の経(へ)ゆけば
(訳)この胸の思いを晴らす手立ての糸口さえも今はない。あの方に逢わないまま、いたずらに年が経ってゆくので。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)おもひやる【思ひ遣る】他動詞:①気を晴らす。心を慰める。②はるかに思う。③想像する。推察する。④気にかける。気を配る。(学研)
(注)すべ【術】名詞:手段。方法。てだて。(学研)
(注)たづき【方便】名詞:①手段。手がかり。方法。②ようす。状態。見当。 ⇒参考 古くは「たどき」ともいった。中世には「たつき」と清音にもなった。(学研)
この歌は、男の片恋の歌(三二六〇歌)の反歌である。この左注に、「今案(かむが)ふるに、この反歌は『君に逢はず』と謂(い)へれば理(ことわり)に合はず。よろしく『妹(いも)に逢はず』と言うべし」と書かれている。
(注)理に合はず:男の長歌に女の反歌が付いていることをいう。
(注)よろし【宜し】形容詞:①まずまずだ。まあよい。悪くない。②好ましい。満足できる。③ふさわしい。適当だ。④普通だ。ありふれている。たいしたことはない。(学研)
この左注にこのように万葉集の編者が指摘するということは、「君」の語の使い方には相当の意識が払われていることを物語っている。
「道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君」という表現からは、比較的年少の子供が必死に縋りついているイメージが強く浮かび上がってくるので、この防人が仕えている幼い若君であろうと思われる。
妻というのは、「・・・立ちの騒ぎに相見えし妹が心は・・・(・・・門出の騒ぎの中で、そっと目を見交わしてくれた子、その心根は・・・」(四三五四歌)とか、「葦垣の隈処に立ちて我妹子が袖もしほほに泣きし・・・(葦垣の隅っこに立って、いとしいあの子が袖も絞るばかりに泣き濡れていた・・・)」(四三五七歌)のように、別れの寂しさをこらえているけなげな姿で詠われているのである。万葉集特に東歌等にあっては、共寝など、当事者間の歌は、露骨といえるほどの歌が多いが、人前では、人言、噂を恐れ慎重な態度をみせるのであろう。
こういったギャップを収録しているのも万葉集のおもしろさである。そして万葉集の懐の深さに引き込まれていくのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「植物データベース」 (熊本大学薬学部 薬草園HP)