万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1152)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(112)―万葉集 巻十九 四一六四

●歌は、「ちちの実の父の命はははそ葉の母の命おほろかに心尽くして・・・」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(112)万葉歌碑<プレート>(大伴家持



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(112)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 四一五九から四一六五歌の歌群の標題は、「季春三月九日擬出擧之政行於奮江村道上属目物花之詠幷興中所作之歌」<季春三月の九日に、出擧(すいこ)の政(まつりごと)に擬(あた)りて、古江(ふるえ)の村(むら)に行く道の上(ほとり)にして、物花(ぶつくわ)を属目(しょくもく)する詠(うた)、幷(あは)せて興(きよう)の中(うち)に作る歌>である

 

四一六四、四一六五の題詞は、「慕振勇士之名歌一首并短歌」<勇士の名を振(ふ)るはむることを慕(ねが)ふ歌一首并(あわ)せて短歌>である。

 

 

◆知智乃實乃 父能美許等 波播蘇葉乃 母能美己等 於保呂可尓 情盡而 念良牟 其子奈礼夜母 大夫夜 無奈之久可在 梓弓 須恵布理於許之 投矢毛知 千尋射和多之 劔刀 許思尓等理波伎 安之比奇能 八峯布美越 左之麻久流 情不障 後代乃 可多利都具倍久 名乎多都倍志母

               (大伴家持 巻十九 四一六四)

 

≪書き下し≫ちちの実の 父の命(みこと) ははそ葉(ば)の 母の命(みこと) おほろかに 心尽(つく)して 思ふらむ その子なれやも ますらをや 空(むな)しくあるべき 梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ)振り起し 投矢(なげや)持ち 千尋(ちひろ)射(い)わたし 剣(つるぎ)大刀(たち) 腰に取り佩(は)き あしひきの 八(や)つ峰(を)踏(ふ)み越え さしまくる 心障(さや)らず 後(のち)の世(よ)の 語り継ぐべく 名を立つべしも

 

(訳)ちちの実の父の命も、ははそ葉の母の命も、通り一遍にお心を傾けて思って下さった、そんな子であるはずがあろうか。されば、われらますらおたる者、空しく世を過ごしてよいものか。梓弓の弓末を振り起こしもし、投げ矢を持って千尋の先を射わたしもし、剣太刀、その太刀を腰にしっかと帯びて、あしひきの峰から峰へと踏み越え、ご任命下さった大御心のままに働き、のちの世の語りぐさとなるよう、名を立てるべきである。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ちちのみの【ちちの実の】分類枕詞:同音の繰り返しで「父(ちち)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ははそばの【柞葉の】分類枕詞:「ははそば」は「柞(ははそ)」の葉。語頭の「はは」から、同音の「母(はは)」にかかる。「ははそはの」とも。(学研)

(注)おほろかなり【凡ろかなり】形容動詞:いいかげんだ。なおざりだ。「おぼろかなり」とも。(学研)

(注)や 係助詞《接続》種々の語に付く。活用語には連用形・連体形(上代には已然形にも)に付く。文末に用いられる場合は活用語の終止形・已然形に付く。 ※ここでは、文中にある場合。(受ける文末の活用語は連体形で結ぶ。):①〔疑問〕…か。②〔問いかけ〕…か。③〔反語〕…(だろう)か、いや、…ない。(学研) ここでは、③の意

(注)空しくあるべき:無為に過ごしてよいものであろうか。ここまで前段、次句以下後段。(伊藤脚注)

(注)さしまくる心障(さや)らず:御任命下さった大御心に背くことなく。「さし」は指命する意か。「まくる」は「任く」の連体形。(伊藤脚注)

(注の注)まく【任く】他動詞:①任命する。任命して派遣する。遣わす。②命令によって退出させる。しりぞける。(学研) ここでは①の意

(注の注)さやる【障る】自動詞:①触れる。ひっかかる。②差し支える。妨げられる。(学研)

 

 この歌を含め四一五九から四一六五歌のすべてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その867)」で紹介している・

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 四一六五歌もみてみよう。

 

◆大夫者 名乎之立倍之 後代尓 聞継人毛 可多里都具我祢

              (大伴家持 巻十九 四一六五)

 

≪書き下し≫ますらをは名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね

 

(訳)ますらおたる者は、名を立てなければならない。のちの世に聞き継ぐ人も、ずっと語り伝えてくれるように。(同上)

 

左注は、「右二首追和山上憶良臣作歌」<右の二首は、追和山上憶良臣(やまのうえのおくらのおみ)が作る歌に追(お)ひて和(こた)ふ>である。

 

山上憶良の歌は、九七八歌である。こちらもみておこう。

 

 題詞は、「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、沈痾(ちんあ)の時の歌一首」である。

(注)ちんあ【沈痾】〘名〙: いつまでも全快の見込みのない病気。ながわずらい。痼疾。宿病。宿痾。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

◆士也母 空應有 萬代尓 語継可 名者不立之而

               (山上憶良 巻六 九七八)

 

≪書き下し≫士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継(つ)ぐべき名は立てずして

 

(訳)男子たるもの、無為に世を過ごしてよいものか。万代までも語り継ぐにたる名というものを立てもせずに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

(注)「名をたてる」ことを男子たる者の本懐とする、中国の「士大夫思想」に基づく考え。

 

左注は、「右の一首は、山上憶良の臣が沈痾(ちんあ)の時に、藤原朝臣八束(ふじはらのおみやつか)、河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)を使はして疾(や)める状(さま)を問はしむ。ここに、憶良臣、報(こた)ふる語(ことば)已(を)畢(は)る。しまらくありて、涕(なみた)を拭(のご)ひ悲嘆(かな)しびて、この歌を口吟(うた)ふ。」である。

中西 進氏は、その著「古代史で楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)の中で、「もはや死を覚悟した憶良の『須ありて』という、しばらくの沈黙は、その生涯への回想の無限の感慨を物語っていよう。その物思いの後に口吟した一首であれば、これは空しく死んでいく士われへの、悔恨の一首だったのであろう。」と書かれている。

この一首を辞世として、憶良は間もなく他界したのである。

 

 大伴家持は、年少の時期大宰府で父旅人を通じて憶良とも面識があり少なからず影響を受けていたと思われる。

 越中に赴任し、その逆境にめげず、中国文学や歌を勉強し、己を磨きつつも、時として「天離る鄙に一日もあるべくもあれや」と不満をぶつけ、その都度、憶良の「士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継(つ)ぐべき名は立てずして」の歌が頭をよぎったのであろう。

 そして「あしひきの 八(や)つ峰(を)踏(ふ)み越え さしまくる 心障(さや)らず 後(のち)の世(よ)の 語り継ぐべく 名を立つべしも」と都に戻った時に己が果たすべきことも見据え、並々ならぬ気持ちで詠ったのであろう。

 

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『ちち』が詠まれた万葉歌は二首あるが、いずれも長歌で植物名には多説があり『ちちの実』から『乳(チチ)』を連想して白い汁の出る『犬枇杷(イヌビワ)【犬唐柿】』・『無花果(イチジク)』、乳房状の気根が垂れ下がる『銀杏(イチョウ)』などが推定されるが、はっきりとはしていない。『イチョウ』については中国原産で室町時代の渡来とされ、万葉時代の日本には見られないとする説があり、『イヌビワ説』が有力。『イヌビワ』はバラ科のビワと違って、クワ科のイチジクの仲間に属する。(後略)」と書かれている。

 

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「イヌビワ」 weblio辞書 デジタル大辞泉より引用させていただきました。



 

 

 

 奈良県御所市に「葛城一言神社」の境内には、樹齢1200年といわれる大イチョウがある。

気根の突起物が「乳」のように見えるから「乳イチョウ」と呼ばれている。

樹齢1200年が正しいとすると奈良時代末期には存在していたことになる。

 

 葛城一言神社についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その439)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典