万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1157)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(117)―万葉集 巻二 一四二

●歌は、「家なれば笱に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(117)万葉歌碑<プレート>(有間皇子



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(117)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆家有者 笱尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉盛

            (有間皇子 巻二 一四二)

 

≪書き下し≫家なれば笱(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕旅(たび)にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

(訳)家にいる時にはいつも立派な器物(うつわもの)に盛ってお供えをする飯(いい)なのに、その飯を、今旅の身である私は椎(しい)の葉に盛って神祭りをする。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)け【笥】名詞:容器。入れ物。特に、食器。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌については、これまでも何度となく紹介してきている。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その747)」では、藤白神社有間皇子の墓とともに紹介している。

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 有間皇子の謀反の背景と皇子に対する同情歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その197)」で紹介している。

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 椎の葉にのせてお供えする習慣が和歌山県日高郡みなべ町一帯にあることから風土と結びつけた歌の解釈等についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その217)」で紹介している。

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 「笥」は、おそらく土師器のかわらけのようなものであろう。やきものに関する歌についてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1145)」で紹介している。

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 「椎」を詠んだ歌は、万葉集には、三首(三四九三歌の或る本の歌もカウントすれば四首)収録されている。他の二首(三首)をみてみよう。

 

◆片岡之 此向峯 椎蒔者 今年夏之 陰尓将化疑

                (作者未詳 巻七 一〇九九)

 

≪書き下し≫片岡(かたをか)のこの向(むか)つ嶺(を)に椎(しひ)蒔(ま)かば今年(ことし)の夏の陰(かげ)にならむか

 

(訳)片岡という名の、この向かいの高みに椎の実を蒔いたなら、今年の夏の日蔭になり代わるであろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)片岡:奈良県北葛城郡香芝市一帯の丘陵地帯か

 

 題詞は、「岳(おか)を詠む」である。日陰が欲しいから向かいの高みに椎の実を蒔いて椎の木の林を作って陰を求めようという壮大な歌である。しかし何のためなのか分からない。こちら側は日照りで困っているのは確かであろう。田畑の作物の為だろうか、そのような単純なものではなく、思い人のために何かをしてあげたいと思っているのであろうか。

 

 もう一首も、みてみよう。

 

◆於曽波夜母 奈乎許曽麻多賣 牟可都乎能 四比乃故夜提能 安比波多我波自

                  (作者未詳 巻十四 三四九三)

 

≪書き下し≫遅速(おそはや)も汝(な)をこそ待ため向(むか)つ峰(を)の椎(しひ)の小枝(こやで)の逢ひは違(たが)はじ

 

(訳)遅かろうと早かろうとお前さんの来るのを待とう。真向いの峰の椎の小枝が重なり合っているように、逢えることはまちがいないから。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)おそはやも【遅早も・晩早も】副詞:遅い早いにかかわらず。遅くても早くても。(学研)

 

「或本歌曰」<或る本の歌に曰(い)はく>

 

◆於曽波夜毛 伎美乎思麻多武 牟可都乎能 思比乃佐要太能 登吉波須具登母

                 (作者未詳)

 

≪書き下し≫遅速(おそはや)も君をし待たむ向つ峰(を)の椎のさ枝(えだ)の時は過ぐとも

 

(訳)遅かろうと早かろうとあなたのおいでを待とう。真向いの峰の椎の若枝が茂る時、その約束の時は過ぎようとも。(同上)

 

 一〇九九、三四九三歌ともに、「向つ峰」の椎を見て、恐らくブロッコリーのような房状のもこもことした椎の木々を見て、時間の概念を忘れさせる姿に、そしてその木々が作る陰に畏敬の念が籠っているように思えるのである。若葉から緑々した姿に移り変わるスピードも相まってのことであろう。

 

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『椎(シイ)』は暖地、特に海岸地方に多く自生する高さ20メートルにもなる雌雄同株の常緑高木で、スダジイとツブラジイを示す呼び名である。『スダジイ』は実の形が卵形で、先のとがったやや大粒の実を付けるので『長椎』・『いた椎』とも呼ばれている。

『ツブラジイ』は実の形がほぼ球形で『こ椎』の呼び名がある。(中略)椎の幹は建材・家具材・シイタケの原木などに、樹皮は染色に用いられる。」と書かれている。

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「シイ類の房状の樹冠」   サカタのタネ 園芸通信 「東アジア植物記(小杉波留夫氏著)」から引用させていただきました、

 

一四一、一四二歌の題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。一四二歌もみておこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

             (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 有間皇子は当時十九才と言われている。この二首に接するといつもいつもいろいろなことを考えさせられるのである。死を予感しつつも、というか死を覚悟しているが故に「ま幸(さき)くあらばまた帰り見む」と詠っているのであろう。穏やかならざる心境にも関わらず極めて冷静にこの二首は詠われている。

 罠にはめられたその哀れさもあって後の世の同情歌が詠われ収録されているのである。

 

また、「謀反」というレッテルであれば、万葉集が、有間皇子の歌を収録するのは、と考えてしまうが、万葉集には、大津皇子の歌や大伴氏族の一員と考えれば大伴家持の歌なども藤原氏族を上回って収録されているところにも万葉集の不思議な力を感じてしまう。この点もまた機会をみて掘り下げていきたいものである。

 

 課題ばかりであるが、まだ行けていない岩代の地の歌碑巡りも行いたいものである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「東アジア植物記」 小杉波留夫氏著 (サカタのタネ 園芸通信HP)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」