万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1158)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(118)―万葉集 巻二十 四四九三

●歌は、「初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(118)万葉歌碑<プレート>(大伴家持



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(118)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎

                (大伴家持 巻二十 四四九三)

 

≪書き下し≫初春(はつはる)の初子(はつね)の今日(けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺(ゆ)らく玉の緒

 

(訳)春先駆けての、この初春の初子の今日の玉箒、ああ手に取るやいなやゆらゆらと音をたてる、この玉の緒よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆらく【揺らく】自動詞:(玉や鈴が)揺れて触れ合って、音を立てる。 ※後に「ゆらぐ」とも。(学研) ※※「揺らく」は、動きと音の両方をいう。

 

題詞は、「二年春正月三日召侍従竪子王臣等令侍於内裏之東屋垣下即賜玉箒肆宴 于時内相藤原朝臣奉勅宣 諸王卿等随堪任意作歌并賦詩 仍應 詔旨各陳心緒作歌賦詩  未得諸人之賦詩并作歌也」<二年の春の正月の三日に、侍従、豎子(じゆし)、王臣等(ら)を召し、内裏(うち)の東(ひがし)の屋(や)の垣下(かきもと)に侍(さもら)はしめ、すなわち玉箒(たまばはき)を賜ひて肆宴(しえん)したまふ。時に、内相藤原朝臣、勅(みことのり)を奉じ宣(の)りたまはく、「諸王(しよわう)卿(きやう)等(ら)、堪(かん)のまにま意のまにまに歌を作り、并(あは)せて詩を賦(ふ)せ」とのりたまふ。よりて詔旨(みことのり)に応え、おのもおのも心緒(おもひ)を陳(の)べ、歌を作り詩を賦(ふ)す。  いまだ諸人の賦したる詩、并せて作れる歌を得ず>である。

(注)二年:天平宝字二年(758年)

(注)じじゅう【侍従】名詞:天皇に近侍し、補佐および雑務に奉仕する官。「中務省(なかつかさしやう)」に所属し、定員八名。そのうち三名は少納言の兼任。のちには数が増える。中国風に「拾遺(しふゐ)」ともいう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)じゅし【豎子・孺子】①未熟者。青二才。②子供。わらべ。:未冠の少年で宮廷に奉仕する者。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)かきもと【垣下】名詞:宮中や公卿(くぎよう)の家で催される饗宴(きようえん)で、正客の相手として、ともにもてなしを受ける人。また、その人の座る席。相伴(しようばん)をする人。「かいもと」とも。(学研)

(注)たまばはき【玉箒】名詞:①ほうきにする木・草。今の高野箒(こうやぼうき)とも、箒草(ほうきぐさ)ともいう。②正月の初子(はつね)の日に、蚕室(さんしつ)を掃くのに用いた、玉を飾った儀礼用のほうき。(学研)

(注)まにま【随・随意】名詞:他の人の意志や、物事の成り行きに従うこと。まま。※形式名詞と考えられる。連体修飾語を受けて副詞的に用いられる。(学研)

 

左注は、「右一首右中辨大伴宿祢家持作 但依大蔵政不堪奏之也」<右の一首は、右中弁大伴宿禰家持作る。ただし、大蔵の政(めつりごと)によりて、奏し堪(あ)へず>

(注)大蔵の政によりて、奏し堪へず:右中弁として大蔵省の激務に追われていたため、予め作っておいたが奏上しえなかったことをいう。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その717)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 この歌は、題詞にあるように、天平宝字二年(758年)の正月三日の肆宴に奏上すべく用意していた歌である。

 前々年および前年は、家持に、否、大伴一族にとって大激震が走った年であった。

 (以前も年表は紹介したが再掲載いたします。)

 

天平勝宝八年(756年)

 二月:左大臣橘諸兄藤原仲麻呂一派に誣告され官を辞す

五月 三日:聖武太上天皇死去

 五月十一日:大伴古慈斐(こしび)が朝廷を誹謗したとして拘禁される

       (藤原仲麻呂の讒言)

 六月十七日:家持「族(やから)を喩す歌」(巻二十 四四六五~四四六七歌)を

詠み大伴一族の自重を促す

天平勝宝九年(757年)

 正月:橘諸兄死去

 七月四日:橘奈良麻呂の変(佐伯氏・多治比氏・大伴氏はほとんど根こそぎ葬られる)

 八月:年号は天平宝字と改められる

 

 藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)の中で、「拷掠(こうりょう)・窮問の結果、(中略)大伴古麻呂・多治比犢養(中略)らは、杖下(つえのした)に<拷問の杖に打たれて>死ぬ。安宿王と妻子を佐渡に配流、信濃守佐伯大成・土佐守大伴古慈斐の二人は任国に流す。近江守多治比国人は伊豆国に配流、陸奥守佐伯全成は勘問が終わって自ら死ぬと、記録された。」さらに「『続日本紀』(中略)には、『・・・天平勝宝九歳の逆党、橘奈良麻呂ら並びに縁坐すべて四百四十三人なり、数のうち二百六十二人は罪軽くして免(ゆる)すべし・・・』と記し、天平勝宝九年(天平宝字元年)の橘奈良麻呂の変に連座した人びとの多さを伝えている。」と書かれている。

(注)こうりょう【拷掠】〘名: 打ちたたいて罪を責めたり、白状させたりすること。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 そして家持は結局、事件の圏外にあってひとり身を守ったのである。

 歴史の大きな揺れを意識しつつ「玉箒(たまばはき)手に取るからに揺(ゆ)らく玉の緒」と奏上はされなかったが、己の為すべき道への決意も新たに、心境を詠っているのである。

 

 橘奈良麻呂の変と家持の立ち位置についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1044)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 橘奈良麻呂の変は、安宿王をも巻き込んでいく。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1120)」で触れている。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『玉箒(タマバハキ)』はわが国のキク科植物では唯一の木本(モクホン)植物で、関東地方から西の丘陵や山地にみられる高さ60~90センチの落葉小低木である。『目処萩(メドハギ)』・『箒草(ホウキグサ)』を示す説があったが『高野箒(コウヤボウキ)』が現在では定説となっている。

 『高野箒(コウヤボウキ)』は和歌山県高野山でこれを束ねて、箒(ホウキ)を作ったことから付いた名で、ひょろっとした草に見えるが実際は小低木になる。(後略)」とある。

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「コウヤボウキ」 (「花木こよみ」 伊勢志摩スカイラインHPより引用させていただきました。)

 

 四四九三歌が詠まれた天平宝字二年(758年)の六月に家持は、かつて赴任した越中よりも格が低い因幡鳥取県東半分)の国守として赴任している。橘奈良麻呂事件が大なり小なり関わる左遷であろう。

そして、天平宝字三年(759年)の正月に次の歌を詠んでいるのである。

 

題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。

 

◆新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰

                 (大伴家持 巻二十 四五一六)

 

≪書き下し≫新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪のいやしけ吉事(よごと)

 

(訳)新しき年の初めの初春、先駆けての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳(よ)き事よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

 

この時、家持は従五位上延暦四年(785年)八月に生涯を閉じている。この時、中納言従三位

伊藤 博氏は同歌の脚注で「万葉最終編者と見られる家持は、万代与祝の右の一首(四五一六歌)をもって、万葉集を閉じた。」と書かれている。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「花木こよみ」 (伊勢志摩スカイラインHP)