万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1162)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(122)―万葉集 巻八 一四四〇

●歌は、「春雨のしくしく降るに高円の山の桜はいかにかあるらむ」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(122)万葉歌碑<プレート>(河辺東人)



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(122)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆春雨乃 敷布零尓 高圓 山能櫻者 何如有良武

               (河邊東人 巻八 一四四〇)

 

≪書き下し≫春雨(はるさめ)のしくしく振るに高円の山の桜はいかにかあるらむ

 

(訳)春雨がしきりに降り続いている今頃、高円山の桜はどのようになっているのであろう。もう咲き出したであろうかな。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)しくしく【頻く頻く】[副]:《動詞「し(頻)く」を重ねたものから》絶え間なく。しきりに。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)高円の山:奈良市東方、春日山の南の山。

 

 春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板によると、「『桜(サクラ)』は日本の国花であるが、万葉集に詠まれた『さくら』はソメイヨシノなどの多種ある桜ではなく、(中略)野生種の『山桜(ヤマザクラ)』である。『桜(サクラ)』は咲く様子がいかにもうららかなので『さくうら』と呼び、それが『サクラ』に転化したという説や、古事記に登場する『木花之開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)』の『開耶(サクヤ)』の音が名の起源になったなど由来はさまざまである。(後略)」と書かれてる。

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ヤマザクラ」 「薬草データベース」熊本大学薬学部薬草園HPより引用させていただきました。

 河邊朝臣東人(かはべのあそみあづまひと)の名前は、万葉集には、一五九四歌(唱歌)、四二二四歌(伝誦)、九七八歌左注、に出てくる。歌が収録されているのはこの一四四〇歌一首だけである。

 

 この歌ならびに河辺東人の名前が出て来る歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その89改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦ください。)

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河邊東人に、万葉集の左注等から迫ってみよう。大伴家持との接点からみていこう。

 

四二二四歌の左注は、「右一首歌者幸於芳野宮之時藤原皇后御作 但年月未審詳 十月五日河邊朝臣東人傳誦云尓」<右の一首の歌は、吉野の宮に幸(いでま)す時に、藤原皇后(ふぢはらのおほきさき)作らす、ただし、年月いまだ審詳(つばひ)らかにあらず。十月五日に、河辺朝臣東人、伝承(でんしょう)してしか云ふ。>である。

(注)伝承してしか云ふ:伝え吟誦してこういった

 

 巻十九の歌の収録の流れからみて、天平勝宝二年(750年)であると思われる。伊藤 博氏は四二二四歌の脚注で、「越中に来た事情は不明」と書かれている。しかし、家持にこの歌を伝えたのは間違いないだろう。

 

 

 次に、九七八歌の左注をみてみよう。

 

 左注は、「右一首山上憶良臣沈痾之時 藤原朝臣八束使河邊朝臣東人令問所疾之状 於是憶良臣報語已畢 有須拭涕悲嘆口吟此歌」<右の一首は、山上憶良の臣が沈痾(ちんあ)の時に、藤原朝臣八束(ふぢはらのあそみやつか)、河邊朝臣東人を使はして疾(や)める状(さま)を問はしむ。ここに、憶良臣、報(こた)ふる語已畢(こたばをは)る。しまらくありて、涕(なみだ)を拭(のご)ひ悲嘆(かな)しびて、この歌を口吟(うた)ふ>

 

 山上憶良が亡くなったのは天平五年(733年)である。家持が内舎人となり、橘諸兄との接点ができたのは天平十年(788年)であるから、この時点では藤原八束、河辺東人と家持の接点はなかったと考えられる。

 伊藤 博氏は、九七八歌の脚注で河辺東人は「房前の家令だったか」と書かれている。

(注)かれい【家令】: 律令制で、一品(いっぽん)以下四品(しほん)までの親王内親王家、および三位以上の公卿の家で、家務を総括した職員。けりょう。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 藤原八束は、聖武天皇にその才をかわれ、同じ藤原一族の藤原仲麻呂とは一線を画し、聖武天皇橘諸兄らと懇意にしていたのである。

このことに関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1055)」で書いている。

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 一〇四〇歌の題詞は、「安積親王(あさかのみこ)、左少弁(させうべん)藤原八束朝臣(ふぢはらのやつかあそみ)が家にして宴する日に、内舎人大伴宿禰家持が作る歌一首」である。

 このことから天平十五年(743年)には、家持と藤原八束は交友関係があったものと思われる。

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1129)」で紹介している。

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 四二六九から四二七二歌の題詞は、「十一月の八日に、左大臣朝臣が宅(いへ)に在(いま)して肆宴(しえん)したまふ歌四首」であり、聖武天皇橘諸兄、藤原八束、大伴家持の歌が収録されている。天平勝宝四年(752年)のことである。

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その190)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

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 一五九四歌の左注は、「右冬十月皇后宮之維摩講 終日供養大唐高麗等種ゝ音樂 尓乃唱此歌詞 弾琴者市原王 忍坂王<後賜姓大原真人赤麻呂也> 歌子者田口朝臣家守 河邊朝臣東人 置始連長谷等十數人也」

 

(左注訳)右は、冬の十月に、皇后宮(きさきのみや)の維摩講(ゆいまかう)に、 終日(ひねもす)に大唐(からくに)高麗(こま)等の種々(くさぐさ)の音楽を供養し、 すなはちこの歌詞を唱(うた)ふ。 弾琴(ことひき)は市原王(いちはらのおほきみ)・ 忍坂王(おさかのおほきみ)<後に姓大原真人赤麻呂を賜はる>、 歌子(うたひと)は田口朝臣家守(たのくちのあそみやかもり)・河邊朝臣東人(かはへのあそみあずまひと)・置始連長谷(おきそめのむらじはつせ)等(たち)十数人なり」

(注)皇后:聖武天皇皇后、光明子

(注)維摩講:維摩経を講ずる法会。祖父鎌足の七十周忌の供養のため、皇后宮で営まれたもの。

(注)うたびと【歌人】名詞:①「雅楽寮(うたれう)」に所属して、古代の歌を伝え歌う役の人。②歌を上手に歌う人。歌うたい。③和歌を詠む人。歌人(かじん)。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 鎌足の七十周忌の供養であるので、これは天平十一年(739年)のことである。

 

 河辺東人は神護景雲元年(767年)従五位下。この前の年、天平宝字八年(764年)に恵美押勝藤原仲麻呂)の乱が起こっている。

 このことから推測するに、藤原仲麻呂との接点は希薄であったと思われる。

藤原八束を通して家持の歌への思いを感じ取っていたのかもしれない。

 

橘諸兄田辺福麻呂越中に遣わし家持にいくつかの歌を伝えていることは、福麻呂との宴や越中での遊興などから詳しく窺うことができるが、河辺東人の場合は、家持に越中で伝えた歌が光明皇后の歌であったことから、家持が何らかの配慮をして、伝えた事実しか万葉集に記載しなかったのではないかと思われる。

 

 

 橘諸兄田辺福麻呂を遣わし伝承した歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「薬草データベース」 (熊本大学薬学部薬草園HP)