万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1167)―奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(127)―万葉集 巻二 一四一

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

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奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(127)万葉歌碑<プレート>(有間皇子



●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(127)にある。

※プレートには「巻六 一〇〇九」となっているが「巻二 一四一」である。

 

●歌をみていこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

             (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その197)」で一四二歌ならびに有間皇子の悲劇、そして後の世の皇子に対する同情歌について、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その197)」で紹介している。

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 万葉集においては、事の真相は別として、「謀反」の罪に問われ処刑されているが、有間皇子大津皇子の歌が収録されている。橘奈良麻呂の変に連座した「大伴一族」の歌の数は藤原一族をはるかにしのいでいる。

 

巻二の部立「挽歌」の筆頭歌は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」(一四一、一四二歌)である。さらにこの自傷歌に対して同情歌(一四三~一四六歌)が収録されている。それから天智天皇の挽歌(一四七~一五五歌)が続いている。

 これに関して、高橋睦郎氏は「万葉集の詩性」(中西 進編 角川新書)のなかで、(長いですが引用させていただきます)

「この二首が真に有間皇子自傷歌、すなわち辞世であるかどうかはわからない。ほんらいは無記名の旅の咒歌(じゅか)にすぎないものが皇子の辞世に転用されただけかもしれない。転用を転用にとどめないために添えられたのが続く後人の唱和だろうか。<一四三~一四六歌省略>

 相前後する後人の唱和を添えることで、二首は有間皇子の辞世とされた。何のためかといえば、その直後にならぶ天智天皇の挽歌群を有効ならしめるためか、と思われる。<一四七~一五五歌省略>

「・・・つまり天智天皇の挽歌を成立させるためには、天智が死に追いやった有間皇子の鎮魂としての挽歌が成立しなければならない、ということだろう。」と述べておられる。

(注)「咒」は「呪う」異体字⇒ここでは「おまじないの歌」の意。

 

 

 同様に、「・・・持統の子草壁立太子のための最大の障害として除かれた大津への同母姉の切々たる挽歌があって然(しか)るのちはじめて草壁すなわち日並皇子の挽歌が成立する(後略)」(前出)と書かれている。

 

 読み手を意識した、排除された側の歌を取り込み、排除した側の歌を権威付けるのである。

 

 

 高橋睦郎氏が述べられていたように、「この二首が真に有間皇子自傷歌、すなわち辞世であるかどうかはわからない。ほんらいは無記名の旅の咒歌(じゅか)にすぎないものが皇子の辞世に転用されただけかもしれない」としても、悲劇のストーリーを踏まえた「虚像の実像化」により事実化されているのである。そこには「有間皇子自傷歌」しかないのである。

 

 万葉集万葉集たる所以が「歌物語」以上の存在として存在している。

 あまりにも「悲劇」をより深く「悲劇」として感じさせるが故に、その世界においてはもはや加害者的立場の存在に対し、その動機的なものへ理解を示さざるをえない側面も禁じ得ない。ストーリーの中には、「実行犯」的存在が必ず語られており、そこへ「怒り」的なものは誘導されていってしまっているようにさえ思えるのである。

 

9月13日に「有間皇子結松記念碑」を巡って来たばかりである。歌碑を見つめ、あらためて歌を読んで「悲劇」そして有間皇子の心境に思いは馳せたのでる。現地とされるところであれば、なおさら悲劇性が増し、有間皇子の歌を通して、皇子の心境に思いを馳せ、歴史の渦を感じてしまうのである。

 奈良の市経(いちふ)<今の奈良県生駒市壱部町>の家で蘇我赤兄に謀反を企てたとして捕えられ、白浜の牟婁(むぎ)の湯に連れてこられ、中大兄皇子の尋問を受け、「天と赤兄と知る。吾全(もは)ら解(し)らず。」と答えた話は有名である。

牟婁から岩代まで来て、松の枝を結びこの二首を詠み、今の海南市の藤白の地で殺されたのである。

捕えられてからのこの道中を考えると、その悲劇性は増し、心境は思いはかろうとしてもはかれないものがある。

 

 海南市藤白の有間皇子神社ならびに有間皇子のお墓についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その746、747)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集の詩性」 中西 進 編 (角川新書)

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物解説板」

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」