―その1188―
●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。
●歌碑(プレート)は、フィッシャーマンズワーフに立つ真白良媛像の台座にある。
●歌をみていこう。
◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
(有間皇子 巻二 一四一)
≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む
(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。
一四一ならびに一四二歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その197)」をはじめ、これまで幾度となく紹介している。
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■平草原公園➡フィッシャーマンズワーフ
平草原公園から少し遠回りになるが白浜スカイラインをくだり「三段壁」近くの交差点を右折、海岸沿いの道を進む。やがて左手前方に「真白良媛像」らしきものが見えて来る。
フィッシャーマンズワーフの駐車場の出口付近に立つホンカクジヒガイを抱いた真白良媛像の台座に、「万葉悲話」と題し、この歌と有間皇子の死を知らずに待ち続けたという真白良媛に関する次のような話を刻したプレートがある。
「岩代の浜松が枝えを引き結び まさきくあらばまた帰り見む 有間皇子
真白良媛は肌の白い美しい乙女だった。斉明天皇が牟婁のいで湯に行幸のとき、有間皇子は謀反の罪に問われて誅せられたが、真白良媛はそのことも知らずに皇子を思いつつ、いつまでも待ち続けていたという。白浜の海にのみ産するホンカクジヒガイという真白く艶やかな貝は媛の悲恋をいまもなおしのばせるものがある」
(注)ホンカクジヒガイ:本覚寺HPに「貝寺とも言われる本覚寺は、元禄より漁師たちから貝殻の寄進を受け、珍奇珍種の貝を含め千種類・約3万点の貝を所蔵しています。所蔵中には当寺院の名前がついた『ホンカクジヒガイ』もあります。昭和4年(1929年)に京都帝大理学部の故・黒田徳米博士によって発見された、乳白色でつるんとした貝です。」と書かれている。
今回の万葉歌碑巡りの計画の中で、「真白良媛」について初めて知ったのである。有間皇子の悲劇に寄り添う形でこのような秘話が作られたか、他の物語と結びつけられたのだろう。
―白浜番外―
■フィッシャーマンズワーフ➡有間皇子之碑
場所は地図上でわかっているが、現地に来て見ると車を停める所がない。公園前の駐車場は閉鎖されている。行過ごしUターンして、閉鎖されている駐車場の入口ぎりぎりに車を停め、急いで碑の写真を撮りに小走り。
「有間皇子之碑」は、ホテル三楽荘北側小公園にある。
和歌山県公式サイトHPには次のように書かれている。
「日本三古湯として古くから世に知られる白浜温泉だが、きっかけとなったのは、有間皇子が斉明天皇に温泉地のよさをすすめたという故事による。その功績を称える顕彰碑が白浜の中心地・白良浜近くに建てられており、悲劇の皇子は町の恩人として、今もこの地では大切な存在とされている。」
碑の背後のプレートには、有間皇子の悲劇の経緯などが次のように書かれている。
「有間皇子は第三十六代孝徳天皇の皇子である。三十七代斉明天皇の即位三年九月(千三百余年前)氣保養と稱ってこの地に遊び、其の風光絶佳なるに深く感嘆し歸りて帝に奏上した。帝はきこしめし悦びたまひて一度みそなわさむと、御言葉があって、其の翌年遂に牟婁温泉行幸となる。左大臣蘇我赤兄留守を守る。或日赤兄、時の失政を挙げて有間皇子に語る。話の最中に皇子の倚れる椅子が故なく折れくづれたのでこれは不祥だと言って皇子は話を止めて直ちに舘に歸る。
其夜、赤兄は、部下を率ひて市經第の皇子邸を囲み有間皇子謀反したと帝に訴報する。皇子護送されて白浜の行在所に来り、天皇、皇太子の反状を問ふに、答えて曰く、「天と赤兄とのみ知る、吾は知らざるなりと」。のち、連国襲をして有間皇子を藤白坂に絞殺せしむ、と日本書記に有り。時に、御年十九才であった。時の皇太子は中大兄皇子。赤兄は蘇我入鹿の従兄。当時最も厳しき皇位継承論議の中に野心家赤兄の為に計られ、千古の悲劇の御最期として史家は傳へている。略記、白浜温泉に残した皇子の絶句、「讒渉斯境則疾自蠲消」
昭和五十年七月吉日 建之 」
(注)「讒渉斯境則疾自蠲消」(わずかにききょうにわたれば、すなわちやまいおのずからげんしょうす)
意味は、「少しだけ彼の地の景色を見ただけで、すぐに病気も治ってしまいました」
なお、読みや意味が分からなかったので、南紀白浜観光協会に問い合わせしたところ、白浜町教育委員会S学芸員さんから速やかなるご回示をいただきました。
皆様方のご対応の速さに驚くとともに改めて御礼申し上げます。
感謝感激です。(20211008追記)
市經(いちふ)は、生駒山の東側、近鉄「一分(いちぶ)駅」がある界隈である。そこからここ白浜まで護送されて来た道中の有間皇子の胸中や如何。
白浜から岩代で「結び松」をして複雑な心境を詠い、そして藤白坂で最期を迎える。
藤白神社境内社の有間皇子神社、藤白坂の有間皇子の墓ならびに歌碑についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その746、747)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「真白良媛像の台座『万葉悲話』」
★「有間皇子之碑碑文」
★「本覚寺HP」
★「和歌山県公式サイトHP」