●歌は、「室の浦の瀬戸の崎なる鳴島の磯越す波に濡れにけるかも」である。
●歌をみていこう。
◆室之浦之 瑞門之埼有 鳴嶋之 磯越浪尓 所沾可聞
(作者未詳 巻十二 三一六四)
≪書き下し≫室(むろ)の浦(うら)の瀬戸(せと)の崎(さき)なる鳴島(なきしま)の磯(いそ)越す波に濡れにけるかも
(訳)室の浦の瀬戸の崎にある鳴島、その島の泣く涙だというのか、磯を越す波にすっかり濡れてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)鳴島:「泣く島」を懸ける。
相生市HP「万葉の岬」には、この歌に関して「『室の浦』は室津藻振鼻から金ヶ崎にかけての湾入。『鳴島』は金ヶ崎眼下の君島、金ヶ崎と鳴島の間が『湍門』、磯波のしぶきに濡れる舟行旅愁の歌。」と解説が記されている。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その686)」で紹介している。
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この歌碑が白浜町にあるので何故と思ってしまう。
地名と思われる語句をみていこう。
「室之浦」は、兵庫県たつの市御津町の室津藻振鼻から金ヶ崎にかけての湾入とする説が有力である。白浜町周辺の歌碑案内のパンフレットには、「室➡牟婁」と書かれている。
「瀬戸」は、コトバンク デジタル大辞泉によると、「せと【瀬戸】《「狭門(せと)」の意。「せど」とも》: 相対した陸地の間の、特に幅の狭い海峡。潮汐(ちょうせき)の干満により激しい潮流が生じる。」とある。
「瀬戸」は特定の地名を表す場合もあるが、ここでは一般的な「瀬戸」という意味であろう。
「鳴島」は相生市の場合は、金ヶ崎眼下の「君島」を指すと言われているが、白浜町の場合は明確な島が見当たらない。
このように見て来ると、「室の浦」を「牟婁の浦」と解釈して、当地に歌碑を設置したものと考えらえる。
歌に戻ろう。
この歌は、妻のことを思う「羇旅の歌」である。
「妻のことを思う歌」というくくりで、三一六二から三一六四歌が収録されている。他の二首をみてみよう。
◆水咫衝石 心盡而 念鴨 此間毛本名 夢西所見
(作者未詳 巻十二 三一六二)
≪書き下し≫みをつくし心尽(つく)して思へかもここにももとな夢(いめ)にし見ゆる
(訳)みおつくしの名のように、心を尽くして、家の妻が私のことばかりを思っているせいか、旅先のここにも、むやみやたらに妻の姿が夢に出てくる。(同上)
(注)みをつくし【澪標】名詞:往来する舟のために水路の目印として立ててある杭(くい)。⇒参考 「水脈(みを)つ串(くし)」の意。「つ」は「の」の意の古い格助詞。難波の淀(よど)川河口のものが有名。昔、淀川の河口は非常に広がっていて浅く、船の航行に難渋したことから澪標が設けられた。歌では、「わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢(あ)はむとぞ思ふ」(『後撰和歌集』)〈⇒わびぬればいまはたおなじ…。〉のように、「身を尽くし」にかけ、また、「難波」と呼応して詠まれることが多い。(学研)
(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)
◆吾妹兒尓 觸者無二 荒礒廻尓 吾衣手者 所沾可母
(作者未詳 巻十二 三一六三)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)に触(ふ)るとはなしに荒礒(ありそ)みに我(わ)が衣手(ころもで)は濡れにけるかも
(訳)いとしいあの子に触れるということはないまま、荒々しい磯から磯へのこの旅で、私の着物の袖はすっかり濡れてしまった。(同上)
今と違い旅そのものがリスキーである。そして孤独である。リスクに強く立ち向かう味方は、遠く離れたいとしい妻である。孤独であればあるほど、離れれば離れるほどに思いがつのるのであろう。思いがつのり「ここにももとな夢(いめ)にし見ゆる」と詠うのだろう。
万葉の時代、庶民は徒歩である。食べ物も潤沢でなく、簡単に買えるものではない。肉体的にも精神的にもタフであったのだろう。
左手に白良浜を見ながら海岸線を円月島方面に進む。バス停「瀬戸の浦」はストリートビューで確認し、歌碑も見つけておいた。
現実は、車を停める適当な場所が見当たらす、ここもまた一旦通り過ごし、戻って来て、閉鎖されている駐車場入口ぎりぎりに停める。
空き地の片隅に蔦の帽子をかぶったように佇んでいる歌碑である。
「瀬戸の浦」をいろいろと検索していて、何と「真白良媛」が胸に抱いていた「ホンカクジヒガイ」の名の貝の寺といわれる「本覚寺」はこのバス停のすぐ近くにあるということが分かったのである。
事前の調査不足といえばそれまでだが。せっかく傍まで行っていたのにとの思いである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「相生市HP」