万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1195,1196)―日高郡印南燈印南原 おたき瀧法寺、御坊市名田町はし長水産直売所ー万葉集 巻三 四一二、巻一 一二

―その1195―

●歌は、「いなだきにきすめる玉は二つなしかにもかくにも君がまにまに」である。

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日高郡印南燈印南原 おたき瀧法寺万葉歌碑(市原王)

●歌碑は、日高郡印南燈印南原 おたき瀧法寺にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「市原王歌一首」<市原王(いちはらのおおきみ)が歌一首>である。

 

◆伊奈太吉尓 伎須賣流玉者 無二 此方彼方毛 君之随意

                 (市原王 巻三 四一二)

 

≪書き下し≫いなだきにきすめる玉は二つなしかにもかくにも君がまにまに

 

(訳)頭上に束ねた髪の中に秘蔵しているという玉は、二つとない大切な物です。どうぞこれをいかようにもあなたの御心のままになさって下さい。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)いなだき 〘名〙:いただき (コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)きすむ【蔵む】他動詞:大切に納める。秘蔵する。隠す。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かにもかくにも 副詞:とにもかくにも。どうであれ。(学研)

(注の注)かくにも君がまにまに:いかようにもご随意に。大切にしてほしい意がこもる。

 

 大伴駿河麻呂大伴坂上郎女の二嬢(おといらつめ)を娉(つまど)ふ歌のやり取りをしている時に、市原王が、玉(二嬢の譬え)を大切にしてほしいと坂上郎女に成り代わって和(こた)、思いやりの気持ちがこもる心優しい歌である。

 

 

市原王(いちはらのおほきみ)について、「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」に次のように書かれている。

「生没年不詳。奈良時代歌人。『万葉集』に短歌8首を残す。曽祖父(そうそふ)志貴皇子(しきのみこ)、祖父春日王(かすがのおおきみ)、父安貴王(あきのおおきみ)も万葉歌人。玄蕃頭(げんばのかみ)、備中守(びっちゅうのかみ)、治部大輔(じぶのたいふ)その他を歴任。位は正五位下、生存は763年(天平宝字7)まで確認できる(続日本紀(しょくにほんぎ))。作歌は733年(天平5)ごろから758年(天平宝字2)までのもの。全体に宴席などでの身辺に題材をとった穏やかな歌風だが、ひとりっ子であることを悲しむ歌や、平安朝には多いが『万葉集』では唯一の、梅の香を歌った歌など、特異な素材の作もある。なお『市原』と署名のある自筆の書状が正倉院に残っている。[遠藤 宏]」

 

 

 歌碑以外の市原王の歌七首をみてみよう。

 

題詞は、「市原王歌一首」である。

 

◆網兒之山 五百重隠有 佐堤乃埼 左手蝿師子之 夢二四所見

                  (市原王 巻四 六六二)

 

≪書き下し≫網児(あご)の山五百重(いほへ)隠せる佐堤(さで)の崎さで延(は)へし子が夢(いめ)にし見ゆる

 

(訳)かわいいあの子のいる網児(あご)、その山を幾重にも重なった向こうに隠している佐堤(さで)の崎、その名を聞くと、網児の地でさで網(あみ)を広げていたあの海人(あま)おとめの姿が夢にまで見えてくる。(同上)

(注)網児(あご)の山:三重県志摩市阿児町の海岸近くの山か。「網児」に「吾子」の意を懸けつつ、第四句と響き合う。

(注)上三句は序。「さで延へし」を起こす。

(注)佐堤(さで)の崎:所在未詳。

(注)さで【叉手・小網】名詞:魚をすくい取る網。さであみ。(学研)

 

 

 題詞は、「市原王宴祷父安貴王歌一首」<市原王、宴(うたげ)にして父安貴王(あきのおおきみ)を祷(ほ)ぐ歌一首>

 

◆春草者 後波落易 巌成 常磐尓座 貴吾君

                   (市原王 巻六 九八八)

 

≪書き下し≫春草は後(のち)はうつろふ巌(いはほ)なす常盤(ときは)にいませ貴(たふと)き我(あ)が君

 

(訳)春草はどんなに生い茂ってものちには枯れて変わり果ててしまいます。どうか巌(いわお)のように、いつまでも変わらずにいて下さい。貴い我が父君よ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

 題詞は、「市原王悲獨子歌一首」<市原王、独(ひと)り子にあることを悲しぶる歌一首>である。

 

 

◆言不問 木尚妹與兄 有云乎 直獨子尓 有之苦者

                  (市原王 巻六 一〇〇七)

 

≪書き下し≫言(こと)とはぬ木すら妹(いも)と兄(せ)とありといふをただ独り子にあるが苦しさ

 

(訳)物言わぬ非情の木にさえ、妹と兄があるというのに、私は、ただ一人子であるのがつらい。(同上)

 

 

 題詞は、「同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首」<同じ月の十一日に、活道の岡(いくぢのおか)に登り、一株(ひともと)の松の下(した)に集ひて飲む歌二首>である。

(注)活道の岡:京都府相楽郡和束町に「活道が丘公園」がある。

 

◆一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞

                (市原王 巻六 一〇四二)

 

≪書き下し≫一つ松幾代(いくよ)か経(へ)ぬる吹く風の声(おと)の清きは年深みかも

 

(訳)この一本(ひともと)の松は幾代を経ているのであろうか。吹き抜ける風の音がいかにも清らかなのは、幾多の年輪を経ているからなのか。(同上)

 

 左注は、「右一首市原王作」<右の一首は市原王(いちはらのおほきみ)が作>である。

 

 一〇四三歌は家持の歌である。家持とも親交があったことがうかがえる。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その263)」で紹介している。

 ➡ 

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 題詞は、「市原王七夕歌一首」<市原王が七夕の歌一首>である。

 

◆妹許登 吾去道乃 河有者 附目緘結跡 夜更降家類

                  (市原王 巻八 一五四六)

 

≪書き下し≫妹(いも)がりと我が行く道の川しあればつくめ結ぶと夜ぞ更けにける

 

(訳)あの子のもとへと私が行く道、その道筋には川があるので、つくめを結んでいるうちに、夜が更けてしまった。(同上)

(注)がり【許】名詞:…のもと(へ)。…の所(へ)。▽多くは人を表す名詞・代名詞に格助詞「の」が付いた形に続く。 ⇒参考 上代では「がり」は接尾語の用法のみであったが、中古になると接尾語から変化した名詞の用法が生じた。これをも接尾語とみる説もあるが、格助詞「の」を伴った連体修飾語によって修飾されているところから名詞ととらえる方が自然であろう。(学研)

(注)つくめ【付目】;語義未詳。梶を舷に結びつける突起した部分の名か。→かじつくめ。(日本国語大辞典

 

 

 題詞は、「市原王歌一首」である。

 

◆待時而 落鍾礼能 雨零収 開朝香 山之将黄變

                 (市原王 巻八 一五五一)

 

≪書き下し≫時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝(あした)か山のもみたむ

 

(訳)時節を待ち受けて降ったしぐれの雨が今日やんだ。明日の朝には、山がさぞかし見事にもみじすることであろう。(同上)

(注)もみづ【紅葉づ・黄葉づ】自動詞:紅葉・黄葉する。もみじする。 ※上代は「もみつ」。(学研)

 

 

◆宇梅能波奈 香乎加具波之美 等保家杼母 己許呂母之努尓 伎美乎之曽於毛布

                  (市原王 巻二十 四五〇〇)

 

≪書き下し≫梅の花香(か)をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ

 

(訳)お庭の梅の花、その漂う香りの高さに、遠く離れてはおりますけれども、心一途(いちず)に御徳をお慕い申しているのです。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 左注は、「右一首治部大輔市原王」<右の一首は治部大輔(ぢぶのだいふ)市原王>である。

 

 父を敬った歌や、四五〇〇歌のように宴の主人を敬慕するなど目上の人への心遣い、時間軸のスパンが普通の人より長い感じの歌が多い。一人っ子であることの苦しさを詠ってはいるが、逆に何一つ苦労したことがない、ある意味贅沢な気持ちの裏返しの歌であるように思えるのである。

 

 

 おたき滝法寺については同寺HPに、「二千年の歴史と天智天皇ゆかりの宝参り霊場」と書かれており、「紀伊之国十三仏霊場第十三番御札所、伊奈瀧大宝院神宮寺萬徳山瀧法寺は霊験あらたかなる宝の玉の輝く日本唯一の宝参り霊場でございます。日高郡内の熊野古道の要衝であり、後白河院さま、後鳥羽上皇さま他、熊野路を往来する多くの方々が宝参りをなされております。伊奈瀧を中心にお山全体を御佛(神)体と仰ぎ礼拝します。」と書かれている。

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参道の幟



 

 

■「有間皇子結松記念碑➡日高郡印南燈印南原「おたき瀧法寺」

 

 海岸線を離れ山手に向かう。「紀伊の国十三佛霊場」と書かれた赤い幟が立並ぶ参道を上って行く。上がり切ったすぐ右手に歌碑があった。

 歌碑の表面は風化と苔むした影響で文字の判読がしづらい。

 目を凝らして文字を探す。碑の左下部に「市原王」の文字がかろうじて見えた。歌の書き出しの「伊」の字も判読できた。あとは先達の歌碑の写真から形状判定である。

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歌碑と「天智天皇勅願宝参場 龍法寺」の石柱



 隣の石柱は「天智天皇・・・霊場」の文字が書かれているのは確認できたが。

 

 

 

―その1196-

歌は、「我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ」である。

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はし長水産直販部駐車場万葉歌碑



歌碑は、はし長水産直販部駐車場にある。

 

歌をみていこう。

 

◆吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾  <或頭云 吾欲 子嶋羽見遠>

              (斉明天皇 巻一 一二)

 

≪書き下し≫我(わ)が欲(ほ)りし野島は見せつ底深き阿胡根(あごね)の浦の玉ぞ拾(ひり)はぬ  <或いは頭に「我が欲りし子島は見しを」といふ>

 

(訳)私が見たいと待ち望んでいた野島は見せていただきました。しかし、そこ深い阿胡根の浦の珠(たま:魂)はまだ拾っていません。<私が見たいと待ち望んでいた子島は見ましたが>(同上)

(注)野島:和歌山県御坊市南部の島。見通しのきく、航海の安全を祈る地

(注)阿胡根の浦:野島付近だが所在未詳

(注)子島:所在未詳

 

左注は、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 天皇御製歌云ゝ」<右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検(ただ)すに、日はく、「天皇の御製歌云ゝ」といふ>である。

(注)天皇斉明天皇

 

 この歌については、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1194)」で紹介している。

 ➡ 

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日高郡印南燈印南原「おたき瀧法寺」➡はし長水産直販部駐車場

 

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はし長水産直販部

 瀧法寺から次の目的地、歌碑と昼食という一石二鳥の「はし長水産直販部」を目指す。予定時間をかなりオーバーしているので遅い昼食になる。

海岸縁を走っているのに海が見えない。ナビでは、到着予定時刻1分前である。不安に駆られる。

峠のような感じで、突然目の前にはし長の建物が現れる。やれやれである。

 駐車場ではサーファーの人たちが寛いでいた。

 歌碑よりもまず腹ごしらえである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集の心を読む」 上野 誠 著 (角川文庫)

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」