●歌は、「紀伊の国の雑賀の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ」である。
●歌をみていこう。
◆木國之 狭日鹿乃浦尓 出見者 海人之燎火 浪間従所見
(藤原卿 巻七 一一九四)
≪書き下し≫紀伊の国(きのくに)の雑賀(さひか)の浦に出(い)で見れば、海人(あま)の燈火(ともしび)波の間(ま)ゆ見ゆ
(訳)紀伊の国(きのくに)の雑賀(さいか)の浦に出て見ると、海人のともす漁火(いさりび)が波の間から見える。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)ゆ 格助詞:《接続》体言、活用語の連体形に付く。①〔起点〕…から。…以来。②〔経由点〕…を通って。…を。③〔動作の手段〕…で。…によって。④〔比較の基準〕…より。 ※参考 上代の歌語。類義語に「ゆり」「よ」「より」があったが、中古に入ると「より」に統一された。(学研)
一二一八から一一九五歌までの歌群の左注は、「右七首者藤原卿作 未審年月」<右の七首は、藤原卿(ふぢはらのまへつきみ)が作 いまだ年月審(つばひ)らかにあらず>である。
(注)伊藤 博氏の巻七 題詞「羇旅作」の脚注に、「一一六一から一二四六に本文の乱れがあり、それを正した。そのため歌番号の順に並んでいない所がある。」と書かれている。 この歌群もそれに相当している。
この歌並びに他の六首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その732)」で紹介している。
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この歌の作者について、伊藤 博氏は、脚注に「不比等か。」と書かれている。
「番所庭園案内板」には、神亀元年(724年)の聖武天皇の行幸に随伴した「藤原卿」が詠ったとしているが、大宝元年(701年)の行幸時の歌の収録等から考えても「右七首者藤原卿作 未審年月」とあるのは、それ以前と考えられるのではないだろうか。
小雨パラつく中、番所庭園(ばんどこていえん)に到着。完全貸し切り状態でゆっくり見て周ることができた。
入園料と駐車所代を支払い庭園に入る。すぐに歌碑プレートが迎えてくれる。
歌をみてみよう。
◆三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨
(柿本人麻呂 巻四 四九六)
≪書き下し≫み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも
(訳)み熊野(くまの)の浦べの浜木綿(はまゆう)の葉が幾重にも重なっているように、心にはあなたのことを幾重にも思っているけれど、じかには逢うことができません。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)み熊野:紀伊半島南部一帯
(注)はまゆふ【浜木綿】名詞:浜辺に生える草の名。はまおもとの別名。歌では、葉が幾重にも重なることから「百重(ももへ)」「幾重(いくかさ)ね」などを導く序詞(じよことば)を構成し、また、幾重もの葉が茎を包み隠していることから、幾重にも隔てるもののたとえともされる。よく、熊野(くまの)の景物として詠み込まれる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)上三句は「心は思へど」の譬喩
この歌を含む「柿本朝臣人麻呂歌四首」については直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1187)」で紹介している。
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園内には、同じプレートがもう一箇所に建てられていた。
よく手入れされた松がそして芝生が雨の中ゆえそのグリーンさをいっそう輝かせている。
番所庭園は、江戸時代より紀州藩の見張り番所が置かれた場所であった。そこから「番所の鼻」と呼ばれ、突端には大島(男島)、中ノ島(女島)、双子島が景色をなし、眼下の磯に打ち寄せる白波が景色に花を添えている。
平坦で海に長く鼻のように突き出た地形になっており、紀州藩は海の見張りのためここにも遠見番所を設けたという。ペリー来航(嘉永六年、1853年)を機に紀州藩も本格的な海防に取り組んだという
番所庭園を端的に表現しているのが、入口の門扉の説明板である。「黒船の見張所跡」・「万葉ゆかりの地」、これに尽きる。
■海南市下津町方「粟島神社」➡和歌山市雑賀崎番所鼻「番所庭園」
番所庭園に近づくにつれ、廃墟になったホテルや飲食店が目立つ。かつてはにぎわったのであろうが寂れが目立つ地域である。これは決してコロナ禍によるものだけではなく、それ以前から人気が落ちていたのだろう。
周りの景色に雨が重なり、気持ちを重たくさせる。
しかし、庭園に到着、手入れの行き届いた緑の広大な庭園が別世界を演出している。これにはホッとした。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」