―その1205―
●歌は、「鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘れえめや」である。
●歌碑(プレート)は、加古郡稲美町 稲美中央公園万葉の森(3)にある。
●歌をみていこう。
◆鞆浦之 磯之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
(大伴旅人 巻三 四四七)
≪書き下し≫鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
(訳)鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木。この木をこれから先も見ることがあればそのたびごとに、行く時に共に見たあの子のことが思い出されて、とても忘れられないだろうよ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)見むごとに:これからも見ることがあればその度ごとに。将来にかけての言い方。
―その1206―
●歌は、「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」である。
●歌碑(プレート)は、加古郡稲美町 稲美中央公園万葉の森(4)にある。
●歌をみていこう。
◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
(大伴旅人 巻三 四四六)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき
(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
上記の歌二首の題詞は、「天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首」<天平二年庚午(かのえうま)の冬の十二月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向ひて道に上る時に作る歌五首>である。
四四六から四五〇歌まであり、四四六から四四八歌の三首の左注が、「右三首過鞆浦日作歌」<右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌>である。そして、四四九、四五〇歌の二首の左注が。「右二首過敏馬埼日作歌」<右の二首は、敏馬の埼を過ぐる日に作る歌>である。
四四六、四四七歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。
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まず四四八歌をみてみよう。
◆磯上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可
(大伴旅人 巻三 四四八)
≪書き下し≫磯の上に根延(ねば)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
(訳)海辺の岩の上に根を張っているむろの木よ、行く時にお前を見た人、その人をどうしているかと尋ねたなら、語り聞かせてくれるであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
四四六から四四八歌は、題詞にあるように、天平二年(730年)大伴旅人が大納言に昇進し、大宰府から都に戻る途中、鞆の浦で詠んだものである。
大宰府は、「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれ、主要職メンバーはすべて、遠隔の地からの赴任者であった。それだけに大宰帥の人選にあたっては内助の功を十二分に発揮できる妻をもっているかが条件とされたという。旅人の妻の大伴郎女はそのような才能を有していたが、九州の着くと間もなく、長旅の疲れのせいか病床に就き帰らぬ人になってしまったのである。
赴任する時に、妻と一緒に見た「むろの木」が思い出されて、やるせない気持ちが溢れる歌である。
四四六歌では、「鞆浦之 天木香樹」、四四七歌では、「鞆浦之 磯之室木」さらに四四八歌では、「磯上丹 根蔓室木」とズームアップするいわば連作の見事な展開となっている。このように、やるせない気持ちがほとばしり出てくるのである。
伊藤一彦氏は、四四八歌について、中西 進/編「大伴旅人―人と作品」(祥伝社)の中で、「・・・擬人的用法の『語り告げむか』が生きているのもこの上句ゆえである。『いづら』の『ら』は漠然とした空間をさす接尾語で、『いづく』よりもその場所が特定できない感じである。旅人とてむろの木に問いかけたところで答えが返ってくるとは思えない。にもかかわらず、かく歌っているところに旅人が亡き妻を思う心情が強く出ているのである。『か』の疑問が読者の心にいつまでも悲しく響く。」と書かれている。
そして古橋信孝氏の『万葉集―歌のはじまり』から引用されて、「旅人の『むろの木』三首は『行きにむろの木に安全祈願をした妻が解くことができない』という状況の歌と見ることができ、『語り告げむか』の歌は『祈願した妻の魂がこのむろの木に留まっているから、こう詠める。したがって、旅人は妻の魂を鎮めなけらばならない。そういうモチーフで詠まれた歌なのだ。』」と書かれている。
次に、四四九、四五〇歌をみてみよう。
◆与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨之見者 涕具末之毛
(大伴旅人 巻三 四四九)
≪書き下し≫妹(いも)と来(こ)し敏馬(みぬめ)の崎を帰るさにひとりし見れば涙(なみた)ぐましも
(訳)行く時にあの子と見たこの敏馬の埼を、帰りしなにただ一人で見ると、涙がにじんでくる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)敏馬に「見ぬ妻」を匂わせる
◆去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲喪 <一云見毛左可受伎濃>
(大伴旅人 巻三 四五〇)
≪書き下し≫行くさにはふたり我(あ)が見しこの崎をひとり過ぐれば心(こころ)悲しも <一には「見もさかず来ぬ」といふ>
(訳)行く時には二人して親しく見たこの敏馬の崎なのに、ここを今一人で通り過ぎると、心が悲しみでいっぱいだ。<遠く見やることもせずにやって来てしまった。>
両歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(敏馬神社番外編)」で紹介している。
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四四九、四五〇歌について、伊藤一彦氏は、「鞆の浦よりさらに都に近づいたところで、妻のないことがますます募ってくる歌である。」とし、四四九歌の結句は「涙ぐましも」。四五〇歌のそれは「心悲しも」であると指摘されている。そして「ただ、どちらの歌も過去と現在をオーバーラップさせた敏馬の崎の大きく美しい風景が結句を単なる感傷におとしめない効果をもたらしている。うつろわぬ自然に向かう、うつろいやすい人間。そんな人間の一人であるという自覚が感じられる。」と書かれている。
このような鋭い見方に触れ、「涙ぐましも」「心悲しも」という語句の響きの重々しさを感じるが、そこに自然と人間との対峙のシーンまでとても考えが及ばない。歌に秘められた心理的階層のベールを剥がせる力を養わないと痛感した。ああ万葉集!!!
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」