万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1208,1209)―加古川市稲美町 中央公園万葉の森(6)―万葉集 巻二十 四五一二、巻二 一六六

―その1208―

●歌は、「池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を扱入れな」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(6)万葉陶板歌碑(大伴家持



●万葉陶板歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(6)にある、

 

●歌をみていこう。

 

◆伊氣美豆尓 可氣佐倍見要氐 佐伎尓保布 安之婢乃波奈乎 蘇弖尓古伎礼奈

               (大伴家持 巻二十 四五一二)

 

≪書き下し≫池水(いけみづ)に影さえ見えて咲きにほふ馬酔木(あしび)の花を袖(そで)に扱(こき)いれな

 

(訳)お池の水の面に影までくっきり映しながら咲きほこっている馬酔木の花、ああ、このかわいい花をしごいて、袖の中にとりこもうではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)こきいる【扱き入る】他動詞:しごいて取る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌は天平宝字二年(758年)二月に詠われている。

天平勝宝九年(757年)七月四日、橘奈良麻呂の変。八月十八日、天平宝字改元

 天平宝字元年(757年)十一月十八日、藤原仲麻呂の権勢をほしいままにした「いざ子どもたはわざなせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は(四四八七歌)」の歌が収録されている。

 

 これ以降は、宴の歌のみが収録されている。

ここから、万葉集の終焉に向かって一気に下って行くのである。

 

 天平宝字元年十二月十八日 大監物三形王が宅

    同    二十三日 治部少輔大原真人今城が宅

 天平宝字二年正月三日   肆宴

    同    七日   青馬節会の宴

    同  二月     式部大輔中臣清麻呂朝臣が宅

    同  二月十日   内相が宅

    同  七月五日   治部少輔大原真人今城が宅(家持を餞する宴)

 天平宝字二年正月一日   因幡の国の庁の宴(四五一五歌)

 そして、四五一六歌をもって万葉集は閉じている。

 

 この間の家持の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1086)」で紹介している。

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―その1209―

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(7)万葉陶板歌碑(大伯皇女)



●万葉陶板歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(7)にある。

 

歌をみていこう。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

              (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 

 大伯皇女は斉明七年(661年)、大津皇子は天智二年(663年)に、天武天皇を父に、天智天皇の皇女である大田皇女を母に生まれている。姉弟である。

大伯皇女は天武二年(673年)天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)に任じられ、翌三年伊勢国に下向したのである。

弟の大津皇子は「体格や容姿が逞しく、寛大。幼いころから学問を好み知識は深く、見事な文章を記した。長じては武芸にすぐれ、その人柄は自由闊達、皇子ながら謙虚、多くの人々の信望を集めた」(『懐風藻』)とある。

大津皇子は、天武天皇崩御の後、川島皇子の密告がもとで謀反のかどで捕らえられ、磐余にある訳語田(をさだ:現奈良県桜井市)の自宅で処刑されている。叔母にあたる持統天皇はわが子草壁皇子皇位を継承させるべく大津皇子を謀反の罪に問うたと言われている。

持統天皇は、天皇になる前は鸕野讃良(うのささら)皇女で大田皇女の妹であった。

 

 大伯皇女の歌については、これまでも幾度となく紹介してきているが、断片的な紹介が主であった。

 時系列的にながめてみよう。

 

標題は、「藤原宮御宇天皇代 天皇謚曰持統天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇也」<藤原(ひぢはら)の宮に天の下知らしめす天皇の代 天皇(すめらみこと)、謚(おくりな)して持統天皇といふ。元年丁亥(ひのとゐ)十一年に位を軽太子(かるのひつぎのみこ)に譲り、尊号を太上天皇(おほきすめらみこと)といふ。

 

 題詞は、「大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首」<大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来(く)る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首>である。

 

◆吾勢祜乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之

         (大伯皇女 巻二 一〇五)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)を大和(やまと)へ遣(や)るとさ夜更けて暁(あかつき)露に我(わ)が立ち濡れし

 

(訳)わが弟を大和へ送り帰さねばならぬと、夜も更けて朝方近くまで立ちつくし、暁の露に私はしとどに濡れた。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 

◆二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武

          (大伯皇女 巻二 一〇六)

 

≪書き下し≫ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ

 

(訳)二人で歩を運んでも寂しくて行き過ぎにくい暗い秋の山なのに、その山を、今頃君はどのようにしてただ一人越えていることであろうか。(同上)

 

 この歌ならびに斎宮についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その427,428)」で紹介している。

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題詞は、「大津皇子薨之後大来皇女従伊勢斎宮上京之時御作歌二首」<大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大伯皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首>である。

 

◆神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓

          (大伯皇女 巻二 一六三)

 

≪書き下し≫神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何(なに)しか来けむ君もあらなくに

 

(訳)荒い風の吹く神の国伊勢にでもいた方がむしろよかったのに、どうして帰って来たのであろう、我が弟ももうこの世にいないのに。(同上)

 

 

◆欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓

         (大伯皇女 巻二 一六四)

 

≪書き下し≫見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに

 

(訳)逢いたいと私が願う弟ももうこの世にいないのに、どうして帰って来たのであろう。いたずらに馬が疲れるだけだったのに。(同上)

 

題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

          (大伯皇女 巻二 一六五)

 

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(同上)

 

 

 父天武天皇も、母大田皇女(天智天皇皇女)もいない。大伯皇女は十余年奉仕した伊勢の斎宮の職を解かれて大和に帰って来た。最愛の弟も二上山に葬られた。それだけに、「うつそみの人なる我れや」は一層「哀傷(かな)しび」の度合いを感じさせるひびきとなっている。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

           (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(同上)

 

 この二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その173)」で紹介している。

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 大津皇子の辞世の句と言われる歌をみてみよう。

 

題詞は、「大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首」<大津皇子(おほつのみこ)、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首>である。

 

◆百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見 雲隠去牟

       (大津皇子 巻三 四一六)

 

≪書き下し≫百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ

 

(訳)百(もも)に伝い行く五十(い)、ああその磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去って行くのか。(伊藤 博 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ももづたふ【百伝ふ】:枕詞 數を数えていって百に達するの意から「八十(やそ)」や、「五十(い)」と同音の「い」を含む地名「磐余(いはれ)」にかかる。

 

 左注は、「右藤原宮朱鳥元年冬十月」≪右、藤原の宮の朱鳥(あかみとり)の元年の冬の十月>とある。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その118改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「悲劇の皇子の<真実像>大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」