●歌は、「下つ毛野三毳の山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ」である。
●歌碑(プレート)は、加古郡稲美町 稲美中央公園万葉の森(20)にある。
●歌をみてみよう。
◆之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思兒呂波 多賀家可母多牟
(作者未詳 巻十四 三四二四)
≪書き下し≫下(しも)つ毛(け)野(の)三毳(みかも)の山のこ楢(なら)のすまぐはし子ろは誰(た)か笥(け)か持たむ
(訳)下野の三毳の山に生(お)い立つ小楢の木、そのみずみずしい若葉のように、目にもさわやかなあの子は、いったい誰のお椀(わん)を世話することになるのかなあ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)下野:栃木県
(注)三毳の山:佐野市東方の山。大田和山ともいう。
(注)す+形容詞:( 接頭 ) 形容詞などに付いて、普通の程度を超えている意を添える。 「 -早い」 「 -ばしこい」(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
(注)まぐわし -ぐはし【目細し】:見た目に美しい。(同上)
(注)け【笥】名詞:容器。入れ物。特に、食器。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
左注は、「右二首下野國歌」<右の二首は下野の国の歌>とある。
この歌ならびに「笥(け)」に関連しやきもの関係についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1145)」で紹介している。
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この歌が収録されている巻十四「東歌」について少しみてみよう。
巻十四は、二百三十首ならびに「或本歌日<或本の歌に日(い)はく>」、「一本歌日<一本の歌に日(いは)く>」とある、「新編国家大観」の番号を持つ「全形異伝歌」八首から成り立っている。
これを勘国歌と未勘国歌に大別し、雑歌、相聞等の部立別に分類し、備考欄に「巻二十の
防人歌」を一覧形式にまとめてみた。
(注)勘国歌の雑歌五首は、「雑歌」の文字が脱落したものと考えられているので( )書きにしている。
(注)勘国歌と未勘国歌の部立は、それぞれの収録に従った。
(注)二十巻の防人歌は、収録されている数であり、ここでは「進(たてまつ)る歌の数」には触れていない。
「未勘国」とは、三四三八から三五七七歌の歌群の左注に、「以前歌詞未得勘知國土山川之名也」<以前(さき)の歌詞は、未(いまだ)国土山川の名を勘(かむが)へ知ること得ず>によるもので、編纂者が「国土山川の名」を把握できていないのである。ここの編纂者とは大伴家持をさすと考えられる。
東歌は「東(あづま)の国の歌」であるが、「あづま」の地域はどこをさしているのか。
古典文学大系「万葉集」では、東国を三つのエリアが考えられるとしている。
「第一のアヅマ:現在の関東・東北地方にあたる国々
第一のアヅマは、古事記で、倭建命が足柄の坂に立って「吾嬬はや」と言い「阿豆麻」と名付けたことや、常陸風土記に「足柄の岳坂(さか)より東を・・・我姫(あづま)の国」と書かれていることに依るとしている。
第三のアヅマは柿本人麻呂の歌(一九九歌)に「・・・鶏が鳴く吾妻の国の御軍士(みいくさ)を召し給ひて・・・」とあるが、壬申の乱の時、天武天皇方に美濃・尾張の軍勢が徴されたことを踏まえ、当時は都を中心に考えれば不破・鈴鹿以東は東国と意識されていたと考えられている。
これに対して第二のアヅマは、万葉集巻十四の勘国歌における分類、および巻二十に収録されている防人歌の出身国によって、遠江・信濃以東と考えられている。
加藤静雄氏は、その著「万葉東歌論」(桜楓社)のなかで、「巻十四の国別分類は、天平勝宝七歳、兵部少輔であった家持が防人歌を入手して、その歌及び防人出身地などを参考にして行った。そのため、第三の東国(不破・鈴鹿以東)の歌も含んでいた未整理本東歌は、第二の東国の範囲、即ち防人出身の国の最も西、遠江・信濃以東の国々に限定されることになった。ここに万葉集における第二の東国の成立があった。」書かれている。
(注)天平勝宝七歳:755年
「第二のアヅマ」は、万葉集、編纂者であると考えられる大伴家持によって定められた地域と考えられるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉東歌論」 加藤静雄 著 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」