●歌は、「君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消の水に裳の裾濡れぬ」である。
●万葉陶板歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(26)にある。
●歌をみていこう。
◆為君 山田之澤 恵具採跡 雪消之水尓 裳裾所沾
(作者未詳 巻十 一八三九)
≪書き下し≫君がため山田の沢(さは)にゑぐ摘(つ)むと雪消(ゆきげ)の水に裳(も)の裾(すそ)濡れぬ
(訳)あの方のために、山田のほとりの沢でえぐを摘もうとして、雪解け水に裳の裾を濡らしてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)えぐ:〘名〙 (あくが強い意の「えぐし(蘞)」から出た語) 植物「くろぐわい(黒慈姑)」の異名。一説に「せり(芹)」をさすともいう。えぐな。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)ほとり【辺】名詞:①辺境。果て。②そば。かたわら。近辺。③関係の近い人。縁故のある人。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その785)」で紹介している。
➡
いきなり「君がため」とくると、あなたのためにと、自己主張的ニュアンスが強いように思えるが、第四、五句で、自己犠牲的な面がしかもかわいらしく表現されており、冒頭からの力関係が逆転し、けなげな歌になっている。初句に「君がため」と置いたところに気持ちが十二分に伝わるように感じられる。
「君がため」と詠い出した歌が万葉集には四首収録されている。他の三首もみてみよう。
大伴旅人の歌である。
題詞は、「大宰帥大伴卿贈大貳丹比縣守卿遷任民部卿歌一首」<大宰帥大伴卿、大弐(だいに)丹比県守卿(たぢひのあがたもりのまへつきみ)が民部卿(みんぶのきやう)に遷任するに贈る歌一首>である。
(注)大弐:大宰府の次官。
◆為君 醸之待酒 安野尓 獨哉将飲 友無二思手
(大伴旅人 巻四 五五五)
≪書き下し≫君がため醸(か)みし待酒(まちざけ)安(やす)の野にひとりや飲まむ友なしにして
(訳)あなたのために醸造しておいた酒、せっかくのその酒を安の野でひとりさびしく飲むことになるのか。友もいないままに。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)まちざけ【待ち酒】名詞:客に飲ませるため、あらかじめ造っておく酒。(学研)
(注)安の野:福岡県朝倉郡内。蘆城の東南
待ち酒が程よく醸造されるのを待たずに丹比縣守卿は大宰府を去って行ってしまった。結局一人で飲むことになるのかと嘆いている。
初句「君がため」と結句「友なしにして」の響き合からより一層のある意味孤独感がにじみ出る歌となっている。
この歌は、天平二年の作と考えられている。天平元年には「長屋王の変」が起こっている。藤原氏の策略であり、大伴氏族の長たる旅人を大宰府に遠ざけるため封じ込め、手足をもぎ取るがごとき人事異動にやるせない思いがあったのだろう。
◆君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉
(柿本人麻呂歌集 巻七 一二四九)
≪書き下し≫君がため浮沼(うきぬ)の池の菱(ひし)摘むと我(わ)が染(そ)めし袖濡れにけるか
(訳)あの方に差し上げるために、浮沼の池の菱の実を摘もうとして、私が染めて作った着物の袖がすっかり濡れてしまいました。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)浮沼(うきぬ)の池:所在未詳
「しまね観光ナビ」HPの浮布の池(うきぬののいけ)には、「三瓶山の西山麓にあり、三瓶山の噴火によって河川がせきとめられてできた『せきとめ湖』です。面積13万5,100平方メートル、最深部3.5mです。静間川の源にあたります。伝説では、長者の娘邇幣姫(にべひめ)が若者に変身した大蛇に恋をし、若者(大蛇)を追って、池に入水しました。その後池面に姫の衣が白線を描いて輝き、白い布が浮かぶようになったとされています。
柿本人麻呂の『君がため浮沼(うきぬ)の池の菱(ひし)摘(つ)むとわが染めし袖ぬれにけるかも』は、この池で詠んだものといわれています。」とある。
ここには、今年の十月十三日に訪れている。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1125)」で紹介している・
➡
次は、旋頭歌である。
◆公為 手力勞 織在衣服叙 春去 何色 揩者吉
(柿本人麻呂歌集 巻七 一二八一)
≪書き下し≫君がため手力(たぢから)疲(つか)れ織(お)れる衣(ころも)ぞ 春さらばいかなる色に摺(す)りてばよけむ
(訳)あなたのためにと、手の力も抜けてしまうほどに精を出して織った着物です。春になったら、これをどんな色に染め上げたらよいのでしょう。(同上)
いずれの歌も、強い響きのある初句「君がため」を第二句から結句で包み込み自分の心情をやわらかくそれでいて強く表現している。
万葉時代の女性から男性に対して使われている「君」には、敬称的なニュアンスが強いから、現在の「君」のニュアンスとは異なるが、このことも歌全体を通して感じることができるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「しまね観光ナビHP」