万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1269)―島根県益田市 県立万葉公園(13)―万葉集 巻二 二二六

●歌は、「荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げけむ」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(13)万葉歌碑(丹比真人)

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(13)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

題詞は、「丹比真人〔名闕〕擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首」<丹比真人(たぢひのまひと)〔名は欠けたり〕、柿本朝臣人麻呂が意に擬(なずら)へて報(こた)ふる歌一首>である。

(注)まひと【真人】名詞:奈良時代天武天皇のときに定められた「八色(やくさ)の姓(かばね)」の最高位。皇族に賜った。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)やくさのかばね【八色の姓・八種の姓】名詞:家柄の尊卑を八段階に分けた姓。天武天皇の十三年(六八四)に定められた、真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなき)の八つ。「八姓(はつしやう)」とも。

(注)なずらふ【準ふ・擬ふ】他動詞:①同程度・同格のものと見なす。比べる。②同じようなものに似せる。まねる。 ※「なぞらふ」とも。(学研)

 

◆荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告

       (丹比真人 巻二 二二六)

 

≪書き下し≫荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げなむ

 

(訳)荒波に寄せられて来る玉、その玉を枕辺に置いて、私がこの浜辺にいると、誰が妻に告げてくれたのであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この題詞の「報(こた)ふる」は、この時点では、人麻呂はすでに亡くなっているから、丹比真人は、もし人麻呂が生きているならばこう詠むに違いないと想像して、妻依羅娘子に対して「報(こた)ふる」歌を詠んだのであろう。

 梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 上」(新潮文庫)のなかで、題詞の「名は欠けたり」について、「ここは、わざと名を欠いたのではないかと思う。なぜなら、人麿の死がもし非業の死であったなら、どうしてその死をとむらうことが、公人として許されようか。有間皇子大津皇子の弔歌をつくったのも、当時の人ではなく後世の人である。もし人麿が律令国家の罪人であるならば、どうして人麿に代わって、その妻に答えることが許されよう。氏姓を書くことがせいいっぱいで、名はとても名のれたものではあるまい。」と書かれている。

 妻依羅娘子の二二四歌の「石川の貝に交(まじ)りて」ならびに二二五歌の「直に逢はば逢ひつかましじ石川に雲立ち渡れ」の意味合いが、丹比真人の歌によって一層はっきりしてくるのである。

 梅原 猛氏は、さらに「万葉集の編者は、もとより人麿の死の様をはっきりいわない。それは、そういう残虐なる刑罰を行なった権力が、まだ健在であるかぎり、はっきり語れることではない。それゆえ、それを歌で暗示するのである。万葉集の編者は親切である。依羅娘子の歌で敏感な人は分かると思うが、それでは分からない人もあると思って丹比真人の歌を加えたのであろう。こういうことは当時の人にははっきりその意味が分かっていたのであろう。」とも書かれている。

 

 柿本人麻呂の生涯を追ってみると、万葉集で人麻呂の製作年代の分かる最初の歌は、題詞「日並皇子尊(ひなみしみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あは)せて短歌」(一六七から一七〇歌)である。日並皇子尊すなわち草壁皇子(皇太子)が亡くなったのは持統三年(689年)四月である。

 そして最後の歌は、題詞「明日香皇女(あすかのひめみこ)の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あは)せて短歌」(一九六から一九八歌)である。明日香皇女が亡くなったのは文武四年(700年)四月である。

この間は持統天皇行幸従駕の歌が多く宮廷歌人として華やかな一面があった。

 梅原 猛氏は前著で「人麻呂は文武四年、おそらくは大宝元年(701年)以後、諸国を転々として讃岐へ、そして最後に石見に行ったことになる。・・・文武四年までは、人麿は都にいて花々しい生活をしたのに対し、以後は旅をしたりして都にはいず、かなり苦しい生活をしたことは否定できないであろう。なぜなら旅は古代日本の貴族にとってはこの上なく苦痛であり、旅に出るということはそれだけで刑罰であったからである。人麿が晩年旅ばかりしていたとすれば、それはけっして晩年の彼の人生が順調であったことを物語らず、むしろ何らかの運命の急変が彼を襲ったことを示すものである。」と書かれている。

 大宝元年藤原不比等政権が確立した年である。そして和銅元年不比等は右大臣になり、専制体制を確立するのである。

 「・・・藤原不比等と君臣一体となって政治を執った元明女帝を讃える歌が人麿には一首もなく、またその子文武帝の阿騎野(あきのの)の猟に扈従(こじゅう)した歌(巻一 四五-四九幡)があるが、その中でも彼は軽皇子(かるのみこ:文武)よりむしろその死んだ父、草壁皇子をしきりに思い出して讃えているのはどういうわけであろうか。おそらく、専制体制のもとにあっての一種の抵抗だったのであろう。」と書かれている。そして「この稀代(きたい)の政治の天才(=藤原不比等)に、われわれは天才詩人(=柿本人麻呂)の追放者の嫌疑をかけなければならない。この精密きわまりない頭脳をもった大政治家は、不気味な微笑みにいかなる犯罪を隠しているのであろうか。詩人と政治家が出会うとき、運命の支配者はいつも政治家である。詩人は・・・人間の悲しい運命、世界の意味の深さを歌う。しかしその歌い方が、時として政治家の忌避をまねくことがある。その時、詩人は流竄(りゅうざん)される。」と書かれ、杜甫李白、白楽天の政治的流竄の運命と比し「わが詩人の運命は一層苛烈であったのではないかと思う。」と力説されている。

(注)こしょう【扈従】名詞<※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる>:貴人に供として付き従うこと。また、その供の人。(学研)

(注)りゅうざん【流竄】[名]:① 罪によって遠隔の地に追いやること。流罪(るざい)。るざん。② 遠隔の地を流れさすらうこと。流浪(るろう)。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 巻一 四五から四九歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1064)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 万葉集の編纂者として大伴家持橘諸兄平城天皇の名前があげられているが、いずれも反藤原である。こう見てくると、万葉集も単なる歌集としての位置づけでなくもう一つの顔をもっていると考えられる。

 ますます巨大な存在として目の前に立ちはだかってくる。挑戦あるのみ!

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」