万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1273、1274)―島根県益田市 県立万葉公園(17,18)―万葉集 巻二 一三九、一四〇

―その1273―

●歌は、「石見のや打歌の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(17)万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(17)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆石見之海 打歌山乃 木際従 吾振袖乎 妹将見香

       (柿本人麻呂 巻二 一三九)

 

<書き下し>石見の海打歌(うつた)の山の木(こ)の間(ま)より我(わ)が振る袖を妹(いも)見つらむか

 

(訳)石見の海、海の辺の打歌の山の木の間から私が振る袖、この袖を、あの子は見てくれているのであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)打歌の山:所在未詳。「高角山」の実名らしいが、これだと見納めの山の意が伝わらない。

 

左注は、「右歌躰雖同句々相替 因此重載」<右は、歌の躰(すがた)同じといへども、句々(くく)相替(あひかは)れり。これに因(よ)りて重ねて載(の)す。>である。

 

 伊藤 博氏は、脚注で、「角(つの):島根県江津市都野津町あたりか」の地名について、「一三一で冒頭にあった『角』がここでは最後にある。」と書かれており、打歌の山(所在未詳)についても「『高角山』の実名らしいが、これだと見納めの山の意が伝わらない。」と書かれている。さらに「この歌の前奏部には妻の里『角』が現れないので、妻への執心の程が一三一歌の前奏部に比べて薄れる」とも書かれている。当時もこのような批評があり、改作していったのであろう。

 

 一三四歌と比較してみよう。

◆石見尓者 高角山乃 木間従文 吾袂振乎 妹見監鴨  (柿本人麻呂 巻二 一三四)

◆石見之海 打歌山乃 木際従  吾振袖乎 妹将見香  (柿本人麻呂 巻二 一三九)

 

 長歌(一三一歌ならびに一三八歌)の結句「靡けこの山」と合わせて見てみる必要がある。

 神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)の中で、「一三九歌は、『靡け』といった木の間から、いま振っている袖をみているだろかと、おなじ別離の時点の思いを具体的にいいなおした体で述べるものです。一三四歌の『見けむかも』のケムは過去の推量です。別離の時点の思いを具体的にも空間的にも離れて、振った袖を妹は見てくれただろうかと回想するのであり、ここで完結し、全体を回想で閉じるものとなります。」と書かれている。

 

 この歌ならびに長歌(一三八歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1047)」で紹介している。

 ➡ こちら1047

 

 

 

―その1274―

●歌は、「な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひずあらむ」である。

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島根県益田市 県立万葉公園(18)万葉歌碑(依羅娘子)

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(18)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子与人麻呂相別歌一首」<柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子(よさみのをとめ)、人麻呂と相別るる歌一首>である。

(注)依羅娘子:人麻呂の妻の一人。摂津・河内にまたがって「依羅」の郷がありその地出身の女性らしいが、万葉では石見の妻とされている。(伊藤脚注)

(注)相別るる歌一首:見納めの山での抒情から逆に妻が見えなくなる時の景へと戻っていく人麻呂の構えに対応して、別れぎわの心情を示す妻の作として、のちに人麻呂が組み合わせた歌らしい。(伊藤脚注)

 

 

◆勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不戀有牟

       (依羅娘子 巻二 一四〇)

 

≪書き下し≫な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我(あ)が恋ひずあらむ

 

(訳)そんなに思い悩まないでくれとあなたはおっしゃるけれど、この私は、今度お逢いできる日をいつと知って、恋い焦がれないでいたらよいのでしょうか。(同上)

 

 

 『「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫』の脚注に「摂津・河内にまたがって『依羅』の郷がありその地出身の女性らしいが、万葉では石見の妻とされている。」と書かれているので、気になったので少し検索してみた。

 

國學院大學 古事記学センターHPの「氏族データベース」の「依網之阿毘古(よさみのあびこ)」の項に次のように書かれている。

摂津国住吉郡大羅郷や河内国多比郡依羅郷を本拠地とする氏族。依網は依羅とも書く。天平勝宝2年(750)に宿禰姓を賜った。『古事記』には、開化天皇の御子である建豊波豆羅和気王の後裔氏族として名がみえる。『新撰姓氏録』には彦坐命を始祖とする依羅宿禰がおり、依網之阿毘古の後裔氏族と目されている(彦坐命も開化天皇の御子である)。『日本書紀』や『住吉大社神代記』の伝承によれば、神功皇后新羅征討に際して、その援助を約した住吉大神を依網吾彦男垂見に祭らせている。また『日本書紀』には、依網屯倉の阿弭古が異鳥(鷹)を献上した記事があり、この阿弭古は依網屯倉に置かれた官職であったと指摘されている。なお『万葉集』には、柿本人麻呂の妻として依羅娘子の名がみえるが、同じく依羅を称する氏族として物部系や百済系の依羅連がいるため、娘子が依網之阿毘古の出身であったかは不明である。」(注:アンダーラインは小生追記)

 

 また、「 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」の「大依羅神社」には、「大依羅神社」の社名・神名の『依羅』は地名を指す。『和名抄』では摂津国住吉郡に大羅郷(おおよさみごう:大依羅神社付近)・河内国丹比郡に依羅郷(現在の松原市北西部)が見え、その一帯を範囲とする地名であったとされる。」と書かれている。(注:アンダーラインは小生追記)

 

 「鴨山五首」は、人麻呂の歌(二二三歌)、依羅娘子の歌(二二四、二二五歌)、丹比真人の歌(二二六歌)、作者未詳歌(二二七歌)で構成されている。

 二二六歌の脚注に「丹比氏の本貫、河内丹比郡に「依羅」の郷名がある。」と書かれているが、上述の検索結果とも符合するところがあるが、これ以上の解明には壁が大きすぎるのである。

 鴨山五首の、人麻呂の歌(二二三歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1266)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 依羅娘子の歌(二二四歌、二二五歌)については、同(その1227、1228)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 ➡

tom101010.hatenablog.com

 

 丹比真人の歌(二二六歌)については、同(その1269)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 作者未詳歌(二二七歌)については、同(その1270)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 このように手探りながらでも、少しずつ深堀し万葉集に挑んでいくことの楽しさが継続への力になるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「氏族データベース」 (國學院大學 古事記学センターHP)

★「 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」