―その1282―
●歌は、「燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」である。
●歌をみていこう。
◆留火之 明大門尓 入日哉 榜将別 家當不見
(柿本人麻呂 巻三 二五四)
≪書き下し≫燈火(ともしび)の明石大門(あかしおほと)に入らむ日や漕ぎ別れなむ家(いへ)のあたり見ず
(訳)燈火明(あか)き明石、その明石の海峡にさしかかる日には、故郷からまったく漕ぎ別れてしまうことになるのであろうか。もはや家族の住む大和の山々を見ることもなく。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)ともしびの【灯し火の】分類枕詞:灯火が明るいことから、地名「明石(あかし)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
―その1283―
●歌は、「天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」である。
●歌をみていこう。
◆天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見 一本云家門當見由
(柿本人麻呂 巻三 二五五)
≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石(あかし)の門(と)より大和島(やまとしま)見ゆ 一本には「家のあたり見ゆ」といふ。
(訳)天離る鄙の長い道のりを、ひたすら都恋しさに上って来ると、明石の海峡から大和の山々が見える。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)明石の門(読み)あかしのと:明石海峡のこと。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
二五四、二五五歌の題詞は、「柿本朝臣人麿羈旅歌八首」<柿本朝臣人麻呂が羈旅(きりょ)の歌八首>である。
(注)八首は、二四九から二五六歌であり、四首ずつ二群に分かれる。前段は往路、後段は帰路の旅情。(伊藤脚注)
八首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その560、561)で紹介している。
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ここでは、八首を書き下しならびに地名をトレースすべく(注)と合わせた形で並べて見る。
◆(二四九歌)御津(みつ)の崎波を畏(かしこ)み隠江(こもりえ)の船なる君は野島(ぬしま)にと宣(の)る
(注)御津 分類地名:今の大阪市にあった港。難波(なにわ)の御津、大伴(おおとも)の御津ともいわれた。(学研)
(注)こもりえ【隠り江】名詞:島や岬などの陰になっていたり、あしなどの水草に覆われていたりして、隠れて見えない入り江。(学研)
(注)野島:淡路島北端の西海岸。
◆(二五〇歌)玉藻(たまも)刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島(のしま)の崎に船近づきぬ
(注)たまもかる【玉藻刈る】分類枕詞:玉藻を刈り採っている所の意で、海岸の地名「敏馬(みぬめ)」「辛荷(からに)」「乎等女(をとめ)」などに、また、海や水に関係のある「沖」「井堤(ゐで)」などにかかる。
(注)敏馬(みぬめ):神戸港の東、岩屋町付近。「見ぬ女」の意を匂わす。
◆(二五一歌)淡路(あはぢ)の野島(のしま)の崎の浜風に妹(いも)が結びし紐(ひも)吹き返す
◆(二五二歌)荒栲(あらたへ)の葛江(ふぢえ)の浦に鱸(すずき)釣る海人(あま)とか見らむ旅行く我(わ)れを
(注)あらたへの【荒妙の・荒栲の】( 枕詞 ):「藤原」「藤井」「藤江」など「藤」のつく地名にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
◆(二五三歌)稲日野(いなびの)も行き過ぎかてに思へれば心恋(こころこひ)しき加古(かこ)の島そ見ゆ
(注)稲日野 分類地名:「印南野(いなみの)」に同じ。(学研)明石から加古川にかけての平野
(注)かてに 分類連語:…できなくて。…しかねて。 ➡なりたち可能等の意の補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の上代の連用形(学研)
(注)加古の島:加古川河口の島
◆(二五四歌)燈火(ともしび)の明石大門(あかしおほと)に入らむ日や漕ぎ別れなむ家(いへ)のあたり見ず
(注)ともしびの【灯し火の】分類枕詞:灯火が明るいことから、地名「明石(あかし)」にかかる。(学研)
◆(二五五歌)天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石(あかし)の門(と)より大和島(やまとしま)見ゆ
(注)明石の門(読み)あかしのと:明石海峡のこと。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
◆(二五六歌)笥飯(けひ)の海(うみ)の庭(には)よくあらし刈薦(かりこも)の乱れて出(い)づ見ゆ海人(あま)の釣船(つりぶね)
(注)笥飯(けひ)の海:淡路島西岸一帯の海
(注)海の庭:海の仕事場
(注)かりこもの【刈り菰の・刈り薦の】分類枕詞:刈り取った真菰(まこも)が乱れやすいことから「乱る」にかかる。(学研)
地名を押さえて見ると、「往路」は、御津の崎→敏馬→淡路→葛江となっている。「復路」は、「稲日野」→「明石」→「明石」→「笥飯」(一本には「武庫」)である。
二五四歌は、歌では「明石大門に入らむ日」とあるので、往路の歌である。しかし、ここに載せたことについて、伊藤氏は脚注で「筑紫に下る時の歌だが、次歌の歓びを際立たせるためにここに置いたらしい。」と書かれている。
万葉時代の船旅の様子を垣間見ることができる。歌によるドキュメンタリーである。
二五四歌については、兵庫県明石市人丸町月照寺の歌碑とともに、(その610)で、二五五歌については、同町柿本神社の歌碑とともに(その608)で、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その608、609,610)」でも紹介している。
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明石市人丸町の柿本神社HPの「柿本神社の歴史」には、次のように書かれている。
「万葉の時代 ことのはを紡ぎ続けた歌聖 柿本人麻呂公 時を刻む明石の地人丸山の高台に静かに祀られております
境内からは瀬戸内海と淡路島そして夢をかける明石海峡大橋が望めます
当社御祭神柿本人麿公は、飛鳥時代宮廷に仕えた歌人で、万葉集、古今集など合わせて400首以上の歌が載せられております。
「天離る 夷の長通ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ」など明石で詠まれた歌もあり、元和六年(1620年)当時、明石城主であった小笠原忠政公が人麿公を歌聖として大変崇敬され、縁深いこの地にお祀り致しました。
主なご神徳は、学問・安産・火災除、更には妻に捧げた歌も多くあり、非常に愛妻家であったことがうかがえる為、夫婦和合の神としてもお祀り致しております。御命日とされる旧暦3月18日(現在では4月の第2日曜日)には、本神輿に子ども会の神輿も加わり、計4基のお神輿が練り歩き、境内は多いに賑わいます。」
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」