万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1288)―島根県益田市 県立万葉公園(32,33)―万葉集 巻三 二六六、巻十一 二四八〇

―その1288-

●歌は、「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」である。

f:id:tom101010:20211222115031j:plain

島根県益田市 県立万葉公園(32)万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(32)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念

     (柿本人麻呂    巻三 二六六)

 

≪書き下し≫近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

 

(訳)近江の海、この海の夕波千鳥よ、お前がそんなに鳴くと、心も撓(たわ)み萎(な)えて、いにしえのことが偲ばれてならぬ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆふなみちどり【夕波千鳥】名詞:夕方に打ち寄せる波の上を群れ飛ぶちどり。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しのに 副詞:①しっとりとなびいて。しおれて。②しんみりと。しみじみと。

③しげく。しきりに。(学研)ここでは②の意

(注)いにしへ:ここでは、天智天皇の近江京の昔のこと

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その236)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 伊藤氏は、二六六歌の「夕波千鳥」について脚注で、「一五三歌の『夫の思う鳥』を踏まえているらしい。」と書かれている。

 

 一五三歌もみてみよう。

 

題詞は、「太后御歌一首」<大后(おほきさき)の御歌一首>である。

(注)大后:天智天皇の皇后、倭姫王

 

◆鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来舡 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立

        (倭大后 巻一 一五三)

 

≪書き下し≫鯨魚(いさな)取り 近江(あふみ)の海(うみ)を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る舟 辺(へ)付(つ)きて 漕ぎ来る舟 沖つ櫂(かひ) いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂(かい) いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ

 

(訳)鯨魚取り近江の海、この海を、沖辺はるかに漕いで来る舟よ、岸辺に沿うて漕いで来る舟よ、沖の櫂もやたらに撥ねてくれるな、岸の櫂もやたらに撥ねてくれるな。若草匂う我が夫(つま)の思いのこもる鳥、その御魂の鳥が驚いて飛び立ってしまうから。(伊藤 博 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いさなとり【鯨魚取り・勇魚取り】 枕詞:クジラを捕る所の意で「海」「浜」「灘(なだ)」にかかる。 (コトバンク 三省堂大辞林第三版)

(注)おきさく【沖放く】沖の方に遠ざかる。 ※「さく」は離れる意。(学研)

(注)へ【辺/方】[名]:① そのものにごく近い場所、また、それへの方向を示す。近く。ほとり。あたり。② (多く「沖」と対句になって)海のほとり。うみべ。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは②の意

(注)わかくさの【若草の】分類枕詞:若草がみずみずしいところから、「妻」「夫(つま)」「妹(いも)」「新(にひ)」などにかかる。(学研)

(注)「夫の 思ふ鳥立つ」:天皇遺愛の鳥を、その霊魂の象徴と見て悲しんだもの。(伊藤脚注)

 

 一五三歌は、まだ天皇を墳墓にほ葬って死を決定していない、殯(もがり)の儀式の最中の歌である。鳥は霊魂を運ぶと考えられていたので、天皇の生をまだ信じている倭大后にとっては、天皇の魂そのものの鳥であるから、飛び立たないようにとの思いで詠っているのである。

 

 一五三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(242)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」は、歌のすばらしさをたたみ込まれてきたのであるが、この歌についていろいろな見方がある。

 上野 誠氏は、その著「万葉集講義 最古の歌集の素顔」(中公新書)の中で、「『古思ほゆ』は、昔のことが思われてならないということだ。具体的には、天智天皇の近江大津京の時代(六六七~六七二)を示す。が、しかし。私は、そういう知識だけで、この歌を味わいたくない。風景には、人の記憶を呼び覚ます力というものがあるからだ。同じ風景を見ても、人によって追懐されるものは、人さまざまに違うはずだ。だから、『古』は『古』で、いつでもよい。そういう観賞もあり得る」と書かれている。

 梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 下」(新潮文庫)の中で、「万葉集の歌を一首ずつ切り離して観賞するくせがついているが、私は、こういう観賞法は根本的にまちがっていると思う。」として、巻三 二六三から二六七歌を挙げられ、「私は、この一連の歌は、けっして単独に理解されるべきものではなく、全体として理解されることによって、一連の歴史的事件と、その事件の中なる人間のあり方を歌ったものである―その意味で、万葉集はすでに一種の歌物語である―と思う・・・」と書かれている。そして、人麿が、近江以後、「彼は四国の狭岑島(さみねのしま)、そして最後には石見の鴨島(かもしま)へ流される。流罪は、中流から遠流へ、そして最後には死へと、だんだん重くなり、高津(たかつ)の沖合で、彼は海の藻くずと消える。」と書かれている。人麻呂は最初は、近江に流されたのである。

 二六四歌の「いさよふ波の行く方(へ)知らずも」は、「・・・詠まれているのは、無常観ではない。むしろ、どこへ行くのか分からない、自己の未来にかんする不安感である。」と流人となった人麿の嘆きとされている。

 二六六歌の「いにしへ」も、人麿にとって、もっと時間軸空間軸の広がりをもった「いにしへ」となり、二六七歌の志貴皇子も歌も、人麻呂と不比等とを歌った歌と解することができるように思える。

 

 二六七

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1289―

●歌は、「道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は」である。

f:id:tom101010:20211222115155j:plain

島根県益田市 県立万葉公園(33)万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(33)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀嬬 <或本歌曰 灼然 人知尓家里 継而之念者>

        (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四八〇)

 

≪書き下し≫道の辺(へ)のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我(わ)が恋妻(こひづま)は <或本の歌には「いちしろく人知りにけり継ぎてし思へば」といふ>

 

 

(訳)道端のいちしの花ではないが、いちじるしく・・・はっきりと、世間の人がみんな知ってしまった。私の恋妻のことは。<いちじるしく世間の人が知ってしまったよ、絶えずあの子のことを思っているので。>(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序、同音で「いちしろく」を起こす。(伊藤脚注)

(注)いちしろし【著し】「いちしるし」に同じ。 ※上代語。(学研)

(注の注)いちしるし【著し】:明白だ。はっきりしている。(学研) ⇒参考 古くは「いちしろし」。中世以降、シク活用となり、「いちじるし」と濁って用いられる。「いち」は接頭語。(学研)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その469)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書

★「水底の歌 柿本人麿論 下」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 三省堂大辞林第三版」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉