●歌は、「忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため」である。
●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P29)にある。
●歌をみてみよう。
◆萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為
(大伴旅人 巻三 三三四)
≪書き下し≫忘れ草我(わ)が紐(ひも)に付く香具山の古りにし里を忘れむがため
(訳)忘れ草、憂いを忘れるこの草を私の下紐に付けました。香具山のあのふるさと明日香の里を、いっそのこと忘れてしまうために。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)わすれぐさ【忘れ草】名詞:草の名。かんぞう(萱草)の別名。身につけると心の憂さを忘れると考えられていたところから、恋の苦しみを忘れるため、下着の紐(ひも)に付けたり、また、垣根に植えたりした。歌でも恋に関連して詠まれることが多い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
「忘れ草」を紐に付けてでも忘れてしまいたい。裏を返せば、奈良の都や香具山に対する望郷の念が強いのである。
この歌は、三二八歌から三三七歌の歌群のなかでの歌である。
この歌群は、伊藤 博氏が、三二八歌(あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり)の脚注に「以下三三七まで、小野老が従五位上になったことを契機とする同じ宴席の歌らしい(後略)。」と書かれている。
この歌群のメンバーは、小野老人、大伴四綱、大伴旅人、沙弥満誓、山上憶良である。
小野老の歌に続いて、大伴四綱が、「やすみしし我(わ)が大君(おほきみ)の敷きませる国の中(うち)には都し思ほゆ(三二九歌)」と、国々の中で、奈良の都が一番懐かしい、と詠い、続いて、四綱は、「藤波(ふぢなみ)の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君(三三〇歌)」で、旅人に「奈良の都、あの都を懐かしく思われますか、あなたさまも。」と問いかけるのである。
場のメンバーには、小野老の歌で、一気に郷愁をそそられたのであろう。
四綱の問いかけに、五首の歌でもって答えているのである。
「我(わ)が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ―私の盛りの時がまた返ってくるだろうか、いやそんなことは考えられない、ひょっとして、奈良の都、あの都を見ないまま終わってしまうのではなかろうか。(三三一歌)」
「我(わ)が命(いのち)も常にあらぬか昔見し象(きさ)の小川(をがわ)を行きて見むためー私の命、この命もずっと変わらずにあってくれないものか。その昔見た象の小川、あの清らかな流れを、もう一度行って見るために。(三三二歌)」
「浅茅(あさぢ)原(はら)つばらつばらにもの思(も)へば古(ふ)りにし里し思ほゆるかもー浅茅原(あさじはら)のチハラではないが、つらつらと物思いに耽っていると、若き日を過ごしたあのふるさと明日香がしみじみと想い出される。(三三三歌)」
「忘れ草我(わ)が紐(ひも)に付く香具山の古りにし里を忘れむがためー忘れ草、憂いを忘れるこの草を私の下紐に付けました。香具山のあのふるさと明日香の里を、いっそのこと忘れてしまうために。(三三四歌)」
「我(わ)が行きは久(ひさ)にはあらじ夢(いめ)のわだ瀬にはならずて淵(ふち)しありこそー私の筑紫在任はそんなに長くはあるまい。あの吉野のわだよ、浅瀬なんかにならず深い淵のままであっておくれ。(三三五歌)」
(注)訳は、「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫によっています。
気の許せる仲間内ならではの、奈良の都に戻りたいという本音の吐露どころか、弱弱しい面までさらけだしているような歌である。大宰帥ではなく旅人その人の歌である。
同じような問いかけに、大宰帥として和(こた)えた歌がある。こちらをみてみよう。
大宰少貮(だざいのせうに)の石川朝臣足人(いしかはのあそみたるひと)が、問いかけた歌。
「さす竹の大宮人(おほみやひと)の住む佐保(さほ)の山をば思(おも)ふやも君(九五五歌)―奈良の都の大宮人たちが、自分の家として住んでいる佐保の山、その山のあたりを懐かしんでおられますか、あなたは。(同上)
これに対して、旅人が答えた歌。
「やすみしし我(わ)が大君(おほきみ)の食(を)す国は大和(やまと)もここも同(おな)じとぞ思ふ―あまねく天下を支配されるわれらの大君がお治めになる国、その国は、大和もここ筑紫(つくし)も変わりはないと思っています。(九五六歌)」
(注)訳は、「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫によっています。
大宰帥としての威厳を感じさせる歌である。
この問答ならびに三二八歌から三三七歌の歌群についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その921)」で紹介している。
➡
大伴旅人が大宰帥に任命されたのは、神亀四年(727年)十月頃で、同五年初めにかけて九州に赴いている。同五年四月頃、着任後ほどなくして、九州に同行してきた妻大伴郎女が病死したのである。
都では藤原氏の勢力が台頭し、旅人の赴任も藤原氏の策略と言われている。大伴氏ら旧氏族は、律令政治を推し進める藤原氏にとっては抵抗勢力であったのである。
公的には、大伴氏の長としてありながら「天離る鄙」大宰府に追いやられ、大伴氏の凋落の危機にみまわれ、私的には妻を亡くしているのである。
旅人にとって、大宰府時代というものは、公私に渡る精神的圧迫感の渦中にあったのである。
このような状況を踏まえた旅人の大宰府時代の歌について、中西 進氏は、その著「古代史で楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)の中で、「われわれはその大宰府の歌から、彼がどのような心情でその地にあったかを、つぶさに知ることができるが、それらを通してもっとも大きなひびきを伝えて来ることは、彼の心がつねに現実にはない、ということである。」と書かれている。そして「過去を回想するにしろ未来をねがうにしろ、旅人の現実感はとぼしい。だから心はつねに望京の念にさいなまれる。」と書かれている。
旅人の歌は、大宰府以前は万葉集に収録されているのは二首のみである(巻三 三一五・三一六歌)。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その974)」で紹介している。
➡
大伴旅人の歌は七十首ほど収録されているが、そのほとんどが大宰府で作られている。
体制からの疎外感、妻の死、そういった絶望・断絶感から逆に自分を見失わないためにも内に秘めた確固たる信念をもって歌に没頭していったのであろう。或は、年齢的に考えてももう失うものは無いといった極限から現実感が乏しい、逃避的な歌の世界を切り開いていったのかもしれない。望郷への凄まじいまでの思い、気を許す仲間には、もろくも崩れる己、さもなくば毅然たる態度を貫く必要性からの砂上の楼閣のごとき己の演出、なまじの職業的歌人からは感じられない、するどさともろさを醸し出している。感情のままと言ってよいほどに素直に泣き、涙している。そこには大伴氏の長たる大宰帥の姿と疎外感にさいなまれた旅人の二面性が歌に結実して心に響く名歌を生み出しているように思えるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「植物データベース」 (熊本大学薬学部 薬草園HP