万葉歌碑を訪ねて(その1319)
●歌は、「ほととぎすいとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ」である。
●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P30)にある。
●歌をみていこう。
◆保等登藝須 伊等布登伎奈之 安夜賣具左 加豆良尓勢武日 許由奈伎和多礼
(田辺福麻呂<誦> 巻十八 四〇三五)
≪書き下し≫ほととぎすいとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
(訳)時鳥よ、来てくれていやな時などありはせぬ。だけど、菖蒲草(あやめぐさ)を縵(かうら)に着ける日、その日だけはかならずここを鳴いて渡っておくれ。(同上)
四〇三二から四〇五一歌の題詞は、「天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌并便誦古詠各述心緒」<天平二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司(さけのつかさ)の令史(さくわん)田辺福麻呂(たなべのさきまろ)に、守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)にして饗(あへ)す。ここに新(あらた)しき歌を作り、幷(あは)せてすなわち古き詠(うた)を誦(うた)ひ、おのもおのも心緒(おもひ)を述ぶ。>である。
四〇三五歌は、題詞にあるように、「古き詠(うた)」すなわち「巻十 一九五五」を「誦(うた)」ったものである。
従って、四〇三五歌の作者名のところは、「田辺福麻呂<誦>」としてあります。
宴会は、二十三日から二十五日まで開かれたのである。
他の三首をみてみよう。
◆奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出(い)でて波立ち来(く)やと見て帰り来(こ)む (田辺福麻呂 巻十八 四〇三二)
(訳)あの奈呉の海に乗り出すのに、どなたか、ほんのしばし舟を貸してください。沖合に漕ぎ出して行って、波が立ち寄せて来るかどうか見て来たいものです。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
◆波立てば奈呉の浦廻(うらみ)に寄る貝の間(ま)なき恋にぞ年は経(へ)にける (田辺福麻呂 巻十八 四〇三三)
(訳)波が立つたびに奈呉の入江に絶え間なく寄って来る貝、その貝のように絶え間もない恋に明け暮れているうちに、時は年を越してしまいました。(同上)
◆奈呉の海に潮の早干(はやひ)ばあさりしに出でむと鶴(たづ)は今ぞ鳴くなる (田辺福麻呂 巻十八 四〇三四)
(訳)この奈呉の海で、潮が引いたらすぐに餌を漁(あさ)りに出ようとばかりに、鶴(たず)は、今しきりに鳴き立てています。(同上)
四〇三二から四〇三五歌の左注は、「右四首田邊史福麻呂」<右の四首は田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)>である。
四〇三二から四〇三五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その843)」で紹介している。
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続く四〇三六から四〇四三歌の題詞は、「于時期之明日将遊覧布勢水海仍述懐各作歌」<時に、明日(あくるひ)に将布勢(ふせ)の水海(みづうみ)に遊覧せむことを期(ねが)ひ、よりて述懐(おもひ)を述べておのもおのも作る歌>である。
◆いかにある布勢(ふせ)の浦ぞもここだくに君が見せむと我れを留(とど)むる (田辺福麻呂 巻十八 四〇三六)
(訳)どんなところなのでしょう。布勢の浦というのは。これほど熱心に、あなたが見せようと私をお引き留めになるとは。(同上)
◆乎布(をふ)の崎(さき)漕(こ)ぎた廻(もとほ)りひねもすに見とも飽(あ)くべき浦にあらなくに <一には「君が問はすも」といふ>(大伴家持 巻十八 四〇三七)
(訳)乎布の崎、その﨑を漕ぎめぐって、日がな一日みても見飽きるような浦ではないのですぞ。ここは。(同上)
◆玉櫛笥(たまくしげ)いつしか明けむ布勢の海の浦を行きつつ玉も拾(ひり)はむ (田辺福麻呂 巻十八 四〇三八)
(訳)玉櫛笥を開けるというではないが、いつになったら夜が明けるのでしょう。一刻も早く、布勢の海の入江を行きめぐりながら、家づとに小石の玉なんぞも広いたいものです。(同上)
◆音(おと)のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を見ずは上(のぼ)らじ年は経(へ)ぬとも (田辺福麻呂 巻十八 四〇三九)
(訳)評判に聞くばかりでこの目でまだ見たことのない布勢の浦、その布勢の浦を見ない限りは都に上りますまい。たとえ年は改まっても。(同上)
◆布勢の浦を行(ゆ)きてし見てばももしきの大宮人(おほみやひと)に語り継(つ)ぎてむ(田辺福麻呂 巻十八 四〇四〇)
(訳)布勢の浦、その浦へ行ってこの目でみたなら、そのすばらしさを、かならず大宮人たちに語り伝えましょう。(同上)
◆梅の花咲き散る園(その)に我れ行かむ君が使(つかひ)を片待(かたま)ちがてら (田辺福麻呂 巻十八 四〇四一)
(訳)梅の花が咲いては散る園、その美しい園に、私は行きましょう。あの方からのお使いを心待ちしながら。(同上)
◆藤波(ふづなみ)の咲き行く見ればほととぎす鳴くべき時に近(ちか)づきにけり (田辺福麻呂 巻十八 四〇四二)
(訳)藤の花房が次々と咲いてゆくのを見ると、季節は、時鳥の鳴き出す時にいよいよちかづいたのですね。(同上)
◆明日(あす)の日の布勢の浦廻(うらみ)の藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも <一には頭に「ほととぎす」といふ>(大伴家持 巻十八 四〇四三)
(訳)明日という日の、布勢の入江の藤の花には、おそらく時鳥は来て鳴かないまま、散るにまかせてしまうのではないでしょうか。(「同上)
左注は、「前件十首歌者廿四日宴作之」<前(さき)の件(くだり)の十首の歌は、二十四日の宴(うたげ)にして作る>である。
(注)前件十首:四〇三六以下八首をさす。四〇三六の題詞の前に二首あったのが、脱落したものか。(伊藤脚注)
四〇三六から四〇四三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その815)」で紹介している。
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四〇四四、四〇四五歌の題詞は、「廿五日徃布勢水海道中馬上口号二首」<二十五日に、布勢の水海(みづうみ)に徃(ゆ)くに、道中、馬の上にして口号(くちずさ)ぶ二首>である。
◆浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟(大伴家持 巻十八 四〇四四)
(訳)浜辺を通って、われらが馬打ち繰り出して行ったなら、沖から海辺へと迎えに来てくれないものか、海人の釣舟が。(同上)
◆沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ(大伴家持 巻十八 四〇四五)
(訳)沖の彼方(かなた)からひたひたと満ちてくる潮のように、いよいよ増さって慕わしさのつのるあなたのお乗りになるお船でしょうか、あれは。(同上)
四〇四六から四〇五一歌の題詞は、「至水海遊覧之時各述懐作歌」<水海に至りて遊覧する時に、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌>である。
◆(かむ)さぶる垂姫(たるひめ)の崎(さき)漕(こ)ぎ廻(めぐ)り見れども飽(あ)かずいかに我れせむ(田辺福麻呂 巻十八 四〇四六)
(訳)何とも神々しい垂姫の﨑、この崎を漕ぎめぐって、見ても見ても見飽きることがない。ああ、私はどうしたらよいのか。(同上)
◆垂姫(たるひめ)の浦を漕ぎつつ今日(けふ)の日は楽しく遊べ言ひ継(つ)ぎにせむ (遊行女婦土師 巻十八 四〇四七)
(訳)この垂姫の浦を漕ぎめぐって、今日一日は楽しく遊んで下さい。今日の楽しさをのちのちまで言い伝えてまいりましょう。(同上)
◆垂姫の浦を漕ぐ舟梶間(かぢま)にも奈良の我家(わぎへ)を忘れて思へや (大伴家持 巻十八 四〇四八)
(訳)垂姫の浦を漕ぐ舟、その舟の櫓(ろ)を一引きするほどのほんのわずかの間にも、奈良の我が屋を忘れたりすることがあろうか。(同上)
◆おろかにぞ我れは思ひし乎布(をふ)の浦の荒礒(ありそ)の廻(めぐ)り見れど飽(あ)かずけり(田辺福麻呂 巻十八 四〇四九)
(訳)私はよい加減に思っておりました。仰せのとおり、乎布の浦の荒磯のあたりは、見ても見ても見飽きることのない所なのでした。(同上)
◆めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山ほととぎす何か来鳴かぬ(久米朝臣廣縄 巻十八 四〇五〇)
(訳)珍しいお方がおいでになったら鳴け、と言いつけておいたのに、山時鳥よ、どうして今来て鳴かないのか。(同上)
◆多祜(たこ)の﨑(さき)木(こ)の暗茂(くらしげ)にほととぎす来鳴き響(とよ)めばはだ恋ひめやも(大伴家持 巻十八 四〇五一)
(訳)多祜の﨑、この崎の木蔭の茂みの中に、時鳥がやって来て鳴きたててくれたら、こうもひどく恋しがることなどありますまいに。(同上)
左注は、「前件十五首歌者廿五日作之」<前(さき)の件(くだり)の十五首の歌は、二十五日に作る>である。
(注)四〇四六以下六首しかない。ここも脱落があるのであろう。
四〇四六から四〇五一歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その817)」で紹介している。
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田辺福麻呂は、元正太上天皇(四〇五八歌)・左大臣橘諸兄(四〇五六歌他)・河内女王(四〇五九歌)・粟田女王(四〇六〇歌)らの歌を家持に伝誦している。
これらの歌ならびに橘諸兄が、大伴家持のところへ田辺福麻呂を遣わした理由等についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)