万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1329)―島根県益田市 県立万葉植物園(P40)―万葉集 巻三 三二二

●歌は、「すめろきの 神の命の 敷きいます 国のことごと 湯はしもさわにあれども 島山の宣しき国とこごしかも伊予の高嶺の射狭庭の岡に立たして 歌思ひ 辞思ほししみ湯の上の木群を見れば臣の木も生ひ継ぎにけり鳴く鳥の声も変らず遠き代に神さびゆかむ幸しところ」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P40)万葉歌碑<プレート>(山部赤人

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P40)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「山部宿祢赤人至伊豫温泉作歌一首幷短歌」<山部宿禰赤人、伊予(いよ)の温泉(ゆ)に至りて作る歌一首幷せて短歌>である。

(注)伊予の温泉:愛媛県松山市道後温泉

 

◆皇神祖之 神乃御言乃 敷座 國之盡 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宣國跡 極是疑 伊豫能高嶺乃 射狭庭乃 崗尓立而 敲思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸

      (山部赤人 巻三 三二二)

 

≪書き下し≫すめろきの 神(かみ)の命(みこと)の 敷きいます 国のことごと 湯(ゆ)はしも さわにあれども 島山(しまやま)の 宣(よろ)しき国と こごしかも 伊予の高嶺(たかね)の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌(うた)思ひ 辞(こと)思ほしし み湯(ゆ)の上(うへ)の 木群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代(よ)に 神(かむ)さびゆかむ 幸(いでま)しところ

 

(訳)代々の天皇がお治めになっている国のどこにでも、温泉(ゆ)はたくさんあるけれども中でも島も山も足り整った国と聞こえる、いかめしくも険しい伊予の高嶺、その嶺に続く射狭庭(いざにわ)に立たれて、歌の想いを練り詞(ことば)を案じられた貴い出で湯の上を覆う林を見ると、臣の木も次々と生い茂っている。鳴く鳥の声もずっと盛んである。遠い末の世まで、これからもますます神々しくなってゆくことであろう、この行幸(いでまし)の跡所(あとどころ)は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しきます【敷きます】分類連語:お治めになる。統治なさる。 ※なりたち動詞「しく」の連用形+尊敬の補助動詞「ます」

(注)ことごと【尽・悉】副詞:①すべて。全部。残らず。②まったく。完全に。(学研) ここでは①の意

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)

(注)こごし 形容詞:凝り固まってごつごつしている。(岩が)ごつごつと重なって険しい。 ※上代語。(学研)

(注)射狭庭の岡:温泉の裏にある岡の名

(注)歌思ひ辞思ほしし:斉明七年(661年)の行幸の折、女帝が舒明天皇と昔来た時(639年)のことを偲んだ歌を詠んだことをいう。八左注(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1149)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

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萬葉集道後温泉」愛媛松山道後温泉HPから引用させていただきました。

 短歌の方もみてみよう。

 

百式紀乃 大宮人之 飽田津尓 船乗将為 年之不知久

       (山部赤人 巻三 三二三)

 

≪書き下し≫ももしきの大宮人(おほみやひと)の熟田津(にぎたつ)に船乗(ふなの)りしけむ年の知らなく

 

(訳)ももしきの大宮人が熟田津で船出をした年がいつのことかわからなくなってしまった。(同上)

(注)巻一 八歌(額田王)「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」が念頭にある。

 

この歌は、熟田津の歌の六~七〇年後、山部赤人が伊予の温泉を訪れ、離宮の跡で往時を偲んで詠んだ歌である。

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)」(愛媛県生涯学習センターHP)によると、「赤人は伊予の国に来て、まず、その温泉・島・山のすばらしさをあげて讃めたたえている。この歌はいわゆる国讃め歌の形をとっている。(中略)一方、反歌の「熟田津に舟乗りしけむ年」は、明らかに八番の額田王作歌を踏まえたもの。すると、赤人は、前述の『書紀』にも載る舒明天皇代の行幸(六三九年)の時と斉明天皇代の行幸(六六一年)の時との、昔を偲んで詠んだわけである。

 なお、赤人が伊予に来浴した事情は知るすべもないが、舒明・斉明両帝だけでなくそれ以前の天皇がたの伊予の温泉行幸の伝承は知って訪れたであろう。赤人は、天皇に従駕して歌詠することの多い宮廷歌人だけに、行幸先の景観の讃美を通して皇室の権威を称揚したのである。なお、山部氏は伊予と深い因縁がある。その先祖を伊予来目部小楯(よのくめべのおだて)といい、播磨の国の巡察使の時に世をのがれている二皇子(後の顕宗・仁賢天皇)を見つけ出した。小楯はその功績によって山部連に任ぜられ、のち伊予に帰郷したという(『古事記』清寧・顕宗。松山市北梅本に播磨塚が現存する)。そういう先祖の地を訪れた感銘も深かったのであろう。」

 

 巻一 八歌の方もみてみよう。

 

標題は、「後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇位後即位後岡本宮」<後(のち)の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の代 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)、後に後の岡本の宮に即位したまふ>である。

(注)後岡本宮:「高市の岡本の宮」と同地。(伊藤脚注)

(注)天豊財重日足姫天皇皇極天皇重祚。三七代斉明天皇。(伊藤脚注)

 

題詞は、「額田王歌」<額田王が歌>である。

 

◆熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

      (額田王 巻一 八)

 

≪書き下し≫熟田津(にきたつ)に船乗り(ふなの)せむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな

 

(訳)熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいた通り、月も出(で)、潮の流れもちょうどよい具合になった、さあ、今こそ漕ぎ出そうぞ。(同上)

(注)熟田津:松山市和気町・堀江町付近。(伊藤脚注)

(注)かなふ【適ふ・叶ふ】自動詞:①適合する。ぴったり合う。②思いどおりになる。成就する。③〔多く下に打消の語を伴って〕いられる。すまされる。かなう。④〔多く下に打消の語を伴って〕対抗できる。かなう。⑤〔多く下に打消・否定表現を伴って〕できる。可能である。(学研)ここでは①の意。

 

左注は、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征 始就于海路 庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮 天皇御覧昔日猶存之物 當時忽起感愛之情 所以因製歌詠為之哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首」<右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰(い)はく、「飛鳥(あすか)の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の元年己丑(つちのとうし)の、九年丁酉(ひのととり)の十二月己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)の壬午(みづのえうま)に、天皇・大后(おほきさき)、伊予(いよ)の湯の宮に幸(いでま)す。 後(のち)の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の七年辛酉(かののととり)の春の正月丁酉(ひのととり)の朔(つきたち)の壬寅(みづのえとら)に、御船西つかたに征(ゆ)き、始めて海路(うみぢ)に就く。庚戌(かのえいぬ)に、御船伊予の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。天皇、昔日(むかし)のなほし存(のこ)れる物を御覧(みここなは)して、その時に、たちまちに感愛の情(こころ)を起したまふ。この故(ゆゑ)によりて御詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かなしび)たまふ」といふ。すなはち、この歌は天皇の御製なり、ただし、額田王(ぬかたのおほきみ)が歌は別に四首あり>である。

(注)飛鳥岡本宮御宇天皇:三四代舒明天皇

(注)九年:書紀には十一年のこととする。(伊藤脚注)

(注)壬午:舒明九年(637年)十二月十四日。(伊藤脚注)

(注)大后:後の皇極・斉明天皇。(伊藤脚注)

(注)壬寅:斉明七年(661年)正月六日。(伊藤脚注)

(注)庚戌:正月十四日。(伊藤脚注)

(注)泊つ:斉明天皇疲労におり道後温泉で静養したらしい。三月二十五日近くまでここにいた。(伊藤脚注)

(注)昔日:亡き夫君舒明と来た昔日。(伊藤脚注)

(注)所以因製歌詠為之哀傷也:類聚歌林には、上の記事の後に到着早々の斉明の哀傷歌を載せ、続けて、滞在中の作、さらに、船出宣言の八の歌を載せていたらしい。(伊藤脚注)

(注)天皇御製:御言持ちとして額田王が八の歌を代作したのでこの伝えがある。(伊藤脚注)

(注)別有四首:この四首、今伝わらず不明。(伊藤脚注)

 

「七年辛酉(かののととり)の春の正月丁酉(ひのととり)の朔(つきたち)の壬寅(みづのえとら)に、御船西つかたに征(ゆ)き、始めて海路(うみぢ)に就く」とあるように。斉明七年(661年)正月六日、斉明天皇自ら新羅出兵の船団を率い難波を後にしたのであった。熟田津に寄って道後温泉で休息し博多に到着したのが三月二十五日である。

斉明天皇が亡くなったのは、七月二十四日である。斉明の死は厭戦からの暗殺とも言われている。

この船団には、中大兄皇子大海人皇子、中大兄の皇女の大田皇女、妹の鸕野讃良(うのささら)皇女(後の持統天皇)、額田王らが乗っていたという。大伯(おおく)皇女は、この船団が岡山県邑久郡(おほくのこほり)の海上で生まれたので大伯皇女と言われている。

壬申の乱大津皇子の謀反などなど歴史を震撼させる火種はこの船団のなかに生まれたといっても過言ではない。

万葉集は歌で歴史を語っていくのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)」 (愛媛県生涯学習センターHP)

★「萬葉集道後温泉」 (愛媛松山道後温泉HP)