万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1334)―島根県江津市二宮町神主 君寺―万葉集 巻二 一四〇

●歌は、「な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひずあらむ」である。

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島根県江津市二宮町神主 君寺万葉歌碑(依羅娘子)

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島根県江津市二宮町神主 君寺万葉歌碑(依羅娘子)裏面

●歌碑は、島根県江津市二宮町神主 君寺にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不戀有牟

       (依羅娘子 巻二 一四〇)

 

≪書き下し≫な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我(あ)が恋ひずあらむ

 

(訳)そんなに思い悩まないでくれとあなたはおっしゃるけれど、この私は、今度お逢いできる日をいつと知って、恋い焦がれないでいたらよいのでしょうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)な 副詞:①…(する)な。…(してくれる)な。▽すぐ下の動詞の表す動作を禁止する意を表す。◇上代語。②〔終助詞「そ」と呼応した「な…そ」の形で〕…(し)てくれるな。▽終助詞「な」に比してもの柔らかで、あつらえに近い禁止の意を表す。 ⇒語法 下に動詞の連用形(カ変・サ変は未然形)を伴う。 ⇒注意 禁止の終助詞「な」(動詞型活用語の終止形に接続)と混同しないこと。 ⇒参考 ①②とも、上代から用いられているが、②は中古末期以降、「な」が省略され、「そ」のみで禁止を表す用法も見られる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

依羅娘子(よさみのをとめ)については、伊藤氏は、この歌の題詞の脚注で、「人麻呂の妻の一人。摂津・河内にまたがって「依羅」の郷がありその地出身の女性らしいが、万葉では石見の妻とされている。」と書かれており、また、題詞の「人麻呂と相別るる歌一首」に関しては、「見納めの山での抒情から逆に妻が見えなくなる時の景へと戻っていく人麻呂の構えに対応して、別れぎわの心情を示す妻の作として、のちに人麻呂が組み合わせた歌らしい。」と書かれている。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1274)」で紹介している。

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 江津市HPの「君寺の歌碑」には、「依羅娘子の生誕の地といわれる恵良の里の君寺寺苑にあります。歌碑は平成5年に地元二宮探宝会によって建立されました。碑文は京都女子大学名誉教授清水克彦先生の筆によるものです。二宮町神主は古くは石見国府のあった所ともいわれています。この二宮町神主に恵良という地区がありますが、この恵良の地こそ依羅娘子の生誕の地といわれています。依羅娘子の出身についてはいろいろな説がありますが、姫は恵良の地に住み、後、「恵良」を「依羅」に変えたと考えられています。」と書かれている。

 

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歌碑と「依羅娘子誕生 住家」案内標識

 

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「依羅娘子誕生 住家」案内標識(歌の解説有)

 

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「万葉(恵良媛)の里」説明案内板

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「恵良万葉故地 依羅娘子(恵良媛)伝承地」の石碑

 

 

 都野津柿本神社の次が君寺である。ナビに従って、那賀グリーンラインに入る。グリーンラインに入ると間もなく右手に二宮交流館が目に入った。君寺の次の目的地も確認。車とすれ違うこともない。しばらく進み左折、山陰道(江津道路)の高架下をくぐり山手方向に進む。

 君寺というが普通の民家の軒下に半鐘をつるした佇まいである。

 しかし、歌碑を見て周りを見渡すと万葉ロマンに引きづり込まれる。

 

 この歌は、万葉集巻二の「相聞」のラストナンバーである。題詞に「・・・人麻呂と相別るる歌一首」とある。万葉集編纂者の巧みな演出である。

 都野津柿本神社が人麻呂と妻依羅娘子が暮らしていた所と伝えられており、そこに「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか(一三二歌)の歌碑があり、ここ君寺は娘子の生誕地と言われ、そこにこの「別るる歌」の歌碑がある。この歌の対応は劇場型以外のなにものでもない。

 歌碑を設置された方々も巧みな演出家である。

 

 都野津柿本神社ならびに一三二歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1333)」で紹介している。

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 そして万葉集巻二は次の章「挽歌」に入って行くのである。

 巻二は標題「寧楽の宮」の歌二二八から二三四歌までは、追補と考えられるので、当初の形であれば、「鴨山五首」で幕を閉じる形であったと思われる。

 「鴨山五首」の二二六、二二七歌も、編者の何らかのメッセージを伝えんとするために必要であると考えられるが、実質的には「挽歌」も人麻呂と依羅娘子の歌で終わり、巻二も幕を閉じるのである。

 

 このように見てくると、「万葉集」っていったい何者なのだと考えてしまう。

 ブログを書く都度、「万葉集」に川面で弄ばれている一枚の落ち葉のような自分が見えてくる。

それでも書き続ける自分がいる。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「江津市HP」