万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1346裏②)―小矢部市蓮沼 万葉公園(1)裏②―万葉集 巻十九 四二〇七

●歌は、「・・・垣内の谷に明けされば榛のさ枝に夕されば藤の茂みにはろはろに鳴くほととぎす・・・」である。

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小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(1の裏②)四二〇七歌の箇所を拡大したもの

 

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(1)裏②にある。


●歌をみていこう。

題詞は、「廿二日贈判官久米朝臣廣縄霍公鳥怨恨歌一首幷短歌」<二十二日に、判官久米朝臣広縄に贈る霍公鳥を怨恨の歌一首幷(あは)せて短歌>である。

 

◆此間尓之氐 曽我比尓所見 和我勢故我 垣都能谿尓 安氣左礼婆 榛之狭枝尓 暮左礼婆 藤之繁美尓 遥ゝ尓 鳴霍公鳥 吾屋戸能 殖木橘 花尓知流 時乎麻太之美 伎奈加奈久 曽許波不怨 之可礼杼毛 谷可多頭伎氐 家居有 君之聞都ゝ 追氣奈久毛宇之

     (大伴家持 巻十九 四二〇七)

 

≪書き下し≫ここにして そがひに見ゆる 我が背子(せこ)が 垣内(かきつ)の谷に 明けされば 榛(はり)のさ枝(えだ)に 夕されば 藤(ふぢ)の茂(しげ)みに はろはろに 鳴くほととぎす 我がやとの 植木橘(うゑきたちばな) 花に散る 時をまだしみ 来鳴かなく そこは恨(うら)みず しかれども 谷片付(かたづ)きて 家(いへ)居(を)れる 君が聞きつつ 告(つ)げなくも憂(う)し

 

(訳)ここからはうしろの方に見える、あなたの屋敷内の谷間に、夜が明けてくると榛の木のさ枝で、夕暮れになると藤の花の茂みで、はるばると鳴く時鳥(ほととぎす)、その時鳥が、我が家の庭の植木の橘はまだ花が咲いて散る時にならないので、来て鳴いてはくれない、が、そのことは恨めしいとは思わない。しかしながら、その谷の傍らに家を構えてお住まいの君が、時鳥の声を聞いていながら、報せてもくれないのはひどいではないか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ここ:家持の館をさす

(注)そがひ【背向】名詞:背後。後ろの方角。後方。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かきつ【垣内】《「かきうち」の音変化か》:垣根に囲まれたうち。屋敷地の中。かいと。(weblio辞書 デジタル大辞泉) >>>「垣内の谷」広縄の館が、時鳥の鳴く谷に近かったので、このように言ったのである。(伊藤脚注)

(注)はろばろ【遥遥】[副]《古くは「はろはろ」》:「はるばる」に同じ。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(訳)かたつく【片付く】自動詞:一方に片寄って付く。一方に接する。(学研)

 

 この歌ならびに四二〇八歌ならびに家持のこの歌に対する広綱が答えている歌(四二〇九、四二一〇歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その830)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 パワハラに近いこの家持の歌に対して広綱は生真面目に答えているのである。家持にとっても信頼がおける部下であったのだろう。

 広綱は、田辺福麻呂越中に来た時、家持と共に布勢の水海に遊覧し、また田辺福麻呂が帰京するにあたっての送別の宴を広綱の家で開催してそれぞれ詠っている。

 

 まず、布勢の水海に遊覧する時の歌、からみてみよう。

 題詞は、「水海に至りて遊覧する時に、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌」(四〇四六から四〇五一歌)である。

 

◆米豆良之伎 吉美我伎麻佐婆 奈家等伊比之 夜麻保登等藝須 奈尓加伎奈可奴

      (久米朝臣廣縄 巻十八 四〇五〇)

 

≪書き下し≫めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山ほととぎす何か来鳴かぬ

 

(訳)珍しいお方がおいでになったら鳴け、と言いつけておいたのに、山時鳥よ、どうして今来て鳴かないのか。(同上)

 

左注は、「右一首掾久米朝臣廣縄 」<右の一首は、掾(じよう)久米朝臣広縄(くめのあそみひろつな)>である。

 

天平二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司令史田辺史福麻呂が都から越中を訪れ、大伴家持と好歓の場を持っているのである。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その817)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 次に、広綱の家で催された宴の歌四首(四〇五二から四〇五五歌)をみてみよう。

 

 題詞は、「掾久米朝臣廣縄之舘饗田邊史福麻呂宴歌四首」<掾久米朝臣広縄が館(たち)にして、田辺史福麻呂に饗(あへ)する宴(うたげ)の歌四首>である。

(注)福麻呂の帰京を明日に控えての送別の宴。(伊藤脚注)

 

◆保登等藝須 伊麻奈可受之弖 安須古要牟 夜麻尓奈久等母 之流思安良米夜母

    (田辺福麻呂 巻十八 四〇五二)

 

≪書き下し≫ほととぎす今鳴かずして明日(あす)越えむ山に鳴くとも験(しるし)あらめやも

 

(訳)時鳥よ、今鳴かないで、明日私が越えて行く山で鳴いたとて、何の甲斐があろうか。(同上)

(注)明日越えむ山に:明日私が越えて行く山で。(伊藤脚注)

左注は、「右一首田邊史福麻呂 」<右の一首は田辺史福麻呂>である。

 

◆]許能久礼尓 奈里奴流母能乎 保等登藝須 奈尓加伎奈可奴 伎美尓安敝流等吉

      (久米広綱 巻十八 四〇五三)

 

≪書き下し≫木(こ)の暗(くれ)になりぬるものをほととぎす何か来鳴かぬ君に逢へる時

 

(訳)木立がこんもりと茂る季節になったというのに、時鳥よ、どうして来て鳴いてくれないのか。めったに逢(あ)えないお方と逢っているこの時に。(同上)

(注)このくれ【木の暗れ・木の暮れ】名詞:木が茂って、その下が暗いこと。また、その暗い所。「木の暮れ茂(しげ)」「木の暮れ闇(やみ)」とも。(学研)

(注)君に逢へる時:都からのまれびとである君に逢っているこの時に。前歌に対する主人側の挨拶。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首久米朝臣廣縄」<右の一首は久米朝臣広縄>である。

 

◆保等登藝須 許欲奈枳和多礼 登毛之備乎 都久欲尓奈蘇倍 曽能可氣母見牟

     (大伴家持 巻十八 四〇五四)

 

≪書き下し≫ほととぎすこよ鳴き渡れ燈火(ともしび)を月夜(つくよ)になそへその影も見む

 

(訳)時鳥よ、ここを鳴き渡っておくれ。かかげた燈火(ともしび)を月の光に見立てて、声ばかりでなく、お前の飛び渡る姿も見たいものだ。(同上)

(注)こ【此】代名詞:これ。ここ。▽近称の指示代名詞。話し手に近い事物・場所をさす。⇒注意 現代語では「この」の形で一語の連体詞とするが、古文では「こ」一字で代名詞。(学研)

(注)なそふ【準ふ・擬ふ】他動詞:なぞらえる。他の物に見立てる。 ※後には「なぞふ」とも。(学研)

(注)燈火を月夜になそへ:宴席に燈火をかかげているのであろう。「なそふ」は見立てるの意。家持に多い語。(伊藤脚注)

 

 

◆可敝流未能 美知由可牟日波 伊都波多野 佐可尓蘇泥布礼 和礼乎事於毛波婆

      (大伴家持 巻十八 四〇五五)

 

≪書き下し≫可敝流廻(かへるみ)の道行かむ日は五幡(いつはた)の坂に袖振(そでふ)れ我れをし思はば

 

(訳)都に帰るという可敝流あたりの道を辿(たど)っていかれる日には、いつの日かまたという幡(いつはた)の坂で別れの袖を振って下さい。私どもの別れがたさを思って下さるならば。(同上)

(注)可敝流:福井県南条郡南越前町南今庄にあった帰(かえる)。都に帰る意を匂わす。(伊藤脚注)

(注)-み 【回・廻・曲】接尾語:〔地形を表す名詞に付いて〕…の湾曲した所。…のまわり。「磯み」「浦み」「島み」「裾(すそ)み(=山の裾のまわり)」(学研)

(注)五幡:福井県敦賀市五幡。帰から西へ越えた敦賀湾の岸。

(注)五幡の坂に袖振れ:いつの日かまた逢おうと袖を振れ、の意をこめる。(伊藤脚注)

 

左注は、「右二首大伴宿祢家持  前件歌者廿六日作之」<右の二首は大伴宿禰家持  前(さき)の件(くだり)の歌は、二十六日に作る>である。

 

家持の「帰」、「五幡」と地名を詠み込んだ流石といわせる歌である。

 

今回の計画では、「五幡」の五幡神社の歌碑も巡る予定にしていたのであるが、晩秋スコールで計画の変更を余儀なくされたのであきらめざるをえなかったのである。それこそいつの日か・・・、の思いである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)