万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1347裏①~⑥)―小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(2の裏)―万葉集 巻十九 四一七四、四一八六、四一八八、四二〇五、四二二五、四二二六

万葉公園(源平ライン)万葉歌碑(2)の裏には六首が刻されている。

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小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)万葉歌碑(2の裏)

 

―その1347(裏①)―

●歌は、「春のうちの楽しき終は梅の花手折り招きつつ遊ぶにあるべし」である。

 

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(2の裏①)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「追和筑紫大宰之時春苑梅歌一首」<筑紫(つくし)の大宰(だざい)の時の春苑梅歌(しゆんゑんばいか)に追ひて和(こた)ふる一首>である。

 

◆春裏之 樂終者 梅花 手折乎伎都追 遊尓可有

      (大伴家持 巻十九 四一七四)

 

≪書き下し≫春のうちの楽しき終(をへ)は梅の花手折(たお)り招(を)きつつ遊ぶにあるべし

 

(訳)春の中でのいちばんの楽しみは、梅の花、この花を手折って客として迎えて、楽しく遊ぶことにあるのだ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首廿七日依興作之」<右の一首は、二十七日に興に依りて作る>である。

 

 四一七四歌は、大伴家持が少年時代に過ごした太宰府大伴旅人の家で天平二年(730年)に開かれた「梅花の宴」(八一五から八四六歌)を懐かしく思い出しながら追和した歌である。

 「春のうちの楽しき終(をへ)は」の句は、梅花の歌三十二首のトップ、紀卿(きのまへつきみ)の「正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽しきを終(を)へめ(八一五歌)」の、結句「楽しきを終(を)へめ」を承けている。また、「招(を)きつつ」は、梅を客として迎える意であり、八一五歌の「梅を招(を)きつつ」を承けている。(四一四七歌の伊藤氏の脚注を参考にしました。)

 

 越中での単身赴任生活の中、このころは妻坂上大嬢が越中まで来てくれ充実した日々を送っており、少年時代の大宰府での思い出が頭を駆け巡ったのであろう。

 

                           

 

―その1347(裏②)―

●歌は、「山吹をやどに植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ」である。

 

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(2の裏②)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆山吹乎 屋戸尓殖弖波 見其等尓 念者不止 戀己曽益礼

      (大伴家持 巻十九 四一八六)

 

≪書き下し≫山吹をやどに植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ

 

(訳)山吹を庭に移し植えては見る、が、見るたびに、物思いは止むことなく、人恋しさがつのるばかりです。(同上)

 

 

―その1347(裏③)―

●歌は、「藤波の花の盛りにかくしこそ浦漕ぎ廻つつ年に偲はめ」である。

 

歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(2の裏③)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆藤奈美能 花盛尓 如此許曽 浦己藝廻都追 年尓之努波米

       (大伴家持 巻十九 四一八八)

 

≪書き下し≫藤波の花の盛りにかくしこそ浦漕(こ)ぎ廻(み)つつ年に偲(しの)はめ

 

(訳)藤の花房のまっ盛りの頃、このように浦から浦へと漕ぎめぐっては、来る年も来る年も賞でよう。この水海を。(同上)

 

 伊藤氏は脚注で「眼前の藤の花に焦点を絞りつつ、長歌の末尾を要約して全体を結ぶ。」と書いておられる。

 長歌もみてみよう。

 

題詞は、「六日遊覧布勢水海作歌一首 幷せて短歌」<六日に、布勢(ふせ)の水海(みづうみ)に遊覧して作る歌一首 幷せて短歌>である。

 

◆念度知 大夫能 許乃久礼能 繁思乎 見明良米 情也良牟等 布勢乃海尓 小船都良奈米 真可伊可氣 伊許藝米具礼婆 乎布能浦尓 霞多奈妣伎 垂姫尓 藤浪咲而 濱浄久 白波左和伎 及々尓 戀波末佐礼杼 今日耳 飽足米夜母 如是己曽 祢年乃波尓 春花之 繁盛尓 秋葉能 黄色時尓 安里我欲比 見都追思努波米 此布勢能海乎

      (大伴家持 巻十九 四一八七)

 

≪書き下し≫思ふどち ますらをのこの 木(こ)の暗(くれ)の 繁(しげ)き思ひを 見明(あき)らめ 心遣(や)らむと 布勢(ふせ)の海に 小舟(をぶね)つら並(な)め ま櫂(かい)掛け い漕(こ)ぎ廻(めぐ)れば 乎布(をふ)の浦に 霞(かすみ)たなびき 垂姫(たるひめ)に 藤波(ふづなみ)咲きて 浜清く 白波騒(さわ)き しくしくに 恋はまされど 今日(けふ)のみに 飽(あ)き足(だ)らめやも かくしこそ いや年のはに 春花(はるはな)の 茂(しげ)き盛りに 秋の葉の もみたむ時に あり通(がよ)ひ 見つつ偲(しの)はめ この布勢の海を

 

(訳)気の合った者同士のましらおたちが、木(こ)の下闇(したやみ)の繁みのような暗くつのる物思い、その茂る憂いを、景色を見て晴らし気を紛らわそうと、布勢の海に小舟を連ね並べて、櫂(かい)を取り付け岸を漕ぎめぐると、乎布の浦には霞がたなびき、垂姫の崎には藤の花房が波打ち、浜辺は清く白波が立ち騒ぐ、立ちしきるその波のように、都恋しさはいよいよ増してしまうのだけれど、景色の美しさは格別、今日見るだけで満足できようか。できるものではない。こうして来る年も来る年も、春の花の咲き盛る時に、秋の木の葉の色づく時に、ずっと通い続けて、見ては賞(め)でよう。この布勢の水海を。

(注)-どち 接尾語:〔名詞に付いて〕…たち。…ども。▽互いに同等・同類である意を表す。「貴人(うまひと)どち」「思ふどち」「男どち」 ⇒参考 「どち」は、「たち」と「ども」との中間に位置するものとして、親しみのある語感をもつ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)このくれ【木の暗れ・木の暮れ】名詞:木が茂って、その下が暗いこと。また、その暗い所。「木の暮れ茂(しげ)」「木の暮れ闇(やみ)」とも。(学研)

(注の注)このくれの【木の暗れの】分類枕詞:①木が茂っていることから「繁(しげ)し」にかかる。②四月ごろになると木が茂り「木の暗れ」になることから「四月(うづき)」にかかる。(学研)

(注)あきらむ【明らむ】他動詞:①明らかにする。はっきりさせる。②晴れ晴れとさせる。心を明るくさせる。 ⇒注意 現代語の「あきらめる」は「断念する」意味だが、古語の「明らむ」にはその意味はない(学研)

(注)こころをやる【心を遣る】分類連語:①気晴らしをする。心を慰める。②得意がる。自慢する。 ※「心遣る」とも。(学研)

(注)垂姫>垂姫の崎:布勢の海の岬。今の富山県氷見市大浦、堀田付近。(伊藤脚注)

(注)しくしく【頻く頻く】:頻りに。絶え間なく、あとからあとから。次第に程度が甚だしくなる様子を示す「弥」(いや)を重ねて「弥頻く頻く」などと言う表現もある。(ちゅうweblio辞書 実用日本語表現辞典)

(注)あきだる【飽き足る】自動詞:十分に満足する。(学研)

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

乎布の浦については、「ニッポン旅マガジン」(プレスマンユニオンHP」に「富山県氷見市にあるかつての十二町潟(じゅうにちょうがた)の面影を残す公園が十二町潟水郷公園。十二町潟排水機場裏の森辺りは乎布の浦(おふのうら)、布勢の水海(ふせのみずうみ)と呼ばれていた『萬葉布勢水海之跡』。万葉の歌人大伴家持越中の国守として現在の高岡市伏木に赴任していた頃、たびたび訪れて遊覧していた景勝地です。」と書かれている。

 

富山県氷見市十二町 十二町潟水郷公園には、家持の巻十七 三九九一・三九九二歌の歌碑がある。

十二町潟水郷公園の歌碑ならびに歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その813)」で紹介している。

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―その1347(裏➃)―

●歌は、「すめろきの遠御代御代はい重き折り酒飲みきといふぞこのほほがしは」である。

 

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(2の裏➃)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保寳我之波

               (大伴家持 巻十九 四二〇五)

 

≪書き下し≫すめろきの遠御代御代(とほみよみよ)はい重(し)き折り酒(き)飲(の)みきといふぞこのほおがしは

 

(訳)古(いにしえ)の天皇(すめらみこと)の御代御代(みよみよ)では、重ねて折って、酒を飲んだということですよ。このほおがしわは。(同上)

 

 この歌ならびに講師僧恵行の四二〇四歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その486)」で紹介している。

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―その1347(裏⑤)―

●歌は、「あしひきの山の黄葉にしづくあひて散らむ山道を君が越えまく」である。

 

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(2の裏⑤)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足日木之 山黄葉尓 四頭久相而 将落山道乎 公之超麻久

      (大伴家持 巻十九 四二二五)

 

≪書き下し≫あしひきの山の黄葉(もみち)にしづくあひて散らむ山道(やまぢ)を君が越えまく

 

(訳)険しい山のもみじに、雫(しずく)とともにもみじの散る山道、そんな山道をあなたは越えて行かれるのですね。(同上)

 

左注は、「右一首同月十六日餞之朝集使少目秦伊美吉石竹時守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、同じき月の十六日に、朝集使(てうしふし)少目(せうさくわん)秦伊美吉石竹(はだのいみきいはたけ)を餞(せん)する時に、守大伴宿禰家持作る>である。

(注)同月十六日:天平勝宝二年(750年)十月十六日

 

 秦伊美吉石竹(はだのいみきいはたけ)が、朝集使としての任についたとき、家持が詠った餞別の歌である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1147)」で紹介している。

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―その1347(裏⑥)―

●歌は、「この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む」である。

 

●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(2の裏⑥)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆此雪之 消遺時尓 去来歸奈 山橘之 實光毛将見

      (大伴家持 巻十九 四二二六)

 

≪書き下し≫この雪の消殘(けのこ)る時にいざ行かな山橘(やまたちばな)の実(み)の照るも見む

 

(訳)この雪がまだ消えてしまわないうちに、さあ行こう。山橘の実が雪に照り輝いているさまを見よう。(同上)

(注)やまたちばな【山橘】名詞:やぶこうじ(=木の名)の別名。冬、赤い実をつける。[季語] 冬。(学研)

 

題詞は、「雪日作歌一首」<雪の日に作る歌一首>である。

 

左注は、「右一首十二月大伴宿祢家持作之」<右の一首は、十二月に大伴宿禰家持作る>である。

 

天平勝宝二年(750年)十二月の歌である。

この歌ならびに家持が詠っているもう一首の山橘の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その832)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「ニッポン旅マガジン」(プレスマンユニオンHP」

★「万葉歌碑めぐりマップ」 (高岡地区広域圏事務組合)

 

※ 20230614「その1347(裏②)」は、巻十九 四一八六歌を追記、②~⑤を②~⑥に訂正。五首でなく六首であったため。