万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1348裏①)―小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(3裏①)―万葉集 巻十九 四一六四

●歌は、「ちちの実の父の命はははそ葉の母の命おほろかに・・・」である。

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小矢部市蓮沼 万葉公園(源平ライン)(3裏①)万葉歌碑(大伴家持



●歌碑は、小矢部市蓮沼 万葉公園(3裏①)にある。

 

●歌をみていこう。

 

四一五九歌から四一六五歌までの歌群の総題は、「季春三月九日擬出擧之政行於舊江村道上属目物花之詠并興中所作之歌」<季春三月の九日に、出擧(すいこ)の政(まつりごと)に擬(あた)りて、古江の村(ふるえのむら)に行く道の上にして、物花(ぶつくわ)を属目(しょくもく)する詠(うた)、并(あは)せて興(きよう)の中(うち)に作る歌>である。

(注)すいこ【出挙】:古代、農民へ稲の種もみや金銭・財物を貸し付け、利息とともに返還させた制度。国が貸し付ける公出挙 (くすいこ) と、私人が貸し付ける私出挙 (しすいこ) とがある。すいきょ。(goo辞書)

 

四一六四・四一五五歌の題詞は、「慕振勇士之名歌一首 并短歌」<勇士の名を振(ふる)はむことを慕(ねが)ふ歌一首 幷(あは)せて短歌」である。

 

◆知智乃實乃 父能美許等 波播蘇葉乃 母能美己等 於保呂可尓 情盡而 念良牟 其子奈礼夜母 大夫夜 無奈之久可在 梓弓 須恵布理於許之 投矢毛知 千尋射和多之 劔刀 許思尓等理波伎 安之比奇能 八峯布美越 左之麻久流 情不障 後代乃 可多利都具倍久 名乎多都倍志母

    (大伴家持 巻十九 四一六四)

 

≪書き下し≫ちちの実の 父の命(みこと) ははそ葉(ば)の 母の命(みこと) おほろかに 心尽(つく)して 思ふらむ その子なれやも ますらをや 空(むな)しくあるべき 梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ)振り起し 投矢(なげや)持ち 千尋(ちひろ)射(い)わたし 剣(つるぎ)大刀(たち) 腰に取り佩(は)き あしひきの 八(や)つ峰(を)踏(ふ)み越え さしまくる 心障(さや)らず 後(のち)の世(よ)の 語り継ぐべく 名を立つべしも

 

(訳)ちちの実の父の命も、ははそ葉の母の命も、通り一遍にお心を傾けて思って下さった、そんな子であるはずがあろうか。されば、われらますらおたる者、空しく世を過ごしてよいものか。梓弓の弓末を振り起こしもし、投げ矢を持って千尋の先を射わたしもし、剣太刀、その太刀を腰にしっかと帯びて、あしひきの峰から峰へと踏み越え、ご任命下さった大御心のままに働き、のちの世の語りぐさとなるよう、名を立てるべきである。(同上)

(注)ちちのみの【ちちの実の】分類枕詞:同音の繰り返しで「父(ちち)」にかかる。(学研)

(注)ははそばの【柞葉の】分類枕詞:「ははそば」は「柞(ははそ)」の葉。語頭の「はは」から、同音の「母(はは)」にかかる。「ははそはの」とも。(学研)

(注)おほろかなり【凡ろかなり】形容動詞:いいかげんだ。なおざりだ。「おぼろかなり」とも。(学研)

(注)や 係助詞《接続》種々の語に付く。活用語には連用形・連体形(上代には已然形にも)に付く。文末に用いられる場合は活用語の終止形・已然形に付く。 ※ここでは、文中にある場合。(受ける文末の活用語は連体形で結ぶ。):①〔疑問〕…か。②〔問いかけ〕…か。③〔反語〕…(だろう)か、いや、…ない。(学研) ここでは、③の意

(注)空しくあるべき:無為に過ごしてよいものであろうか。ここまで前段、次句以下後段。(伊藤脚注)

(注)さしまくる心障(さや)らず:御任命下さった大御心に背くことなく。「さし」は指命する意か。「まくる」は「任く」の連体形。(伊藤脚注)

(注の注)まく【任く】他動詞:①任命する。任命して派遣する。遣わす。②命令によって退出させる。しりぞける。(学研) ここでは①の意

(注の注)さやる【障る】自動詞:①触れる。ひっかかる。②差し支える。妨げられる。(学研)

 

 四一六五歌の方もみてみよう。

 

◆大夫者 名乎之立倍之 後代尓 聞継人毛 可多里都具我祢

      (大伴家持 巻十九 四一六五)

 

≪書き下し≫ますらをは名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね

 

(訳)ますらおたる者は、名を立てなければならない。のちの世に聞き継ぐ人も、ずっと語り伝えてくれるように。(同上)

 

 この二首を含む四一五九から四一六五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その867)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

左注は、「右二首追和山上憶良臣作歌」<右の二首は、追和山上憶良臣(やまのうえのおくらのおみ)が作る歌に追(お)ひて和(こた)ふ>である。

 この左注にある、山上憶良の歌は、九七八歌である。こちらもみておこう。

 

 題詞は、「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、沈痾(ちんあ)の時の歌一首」である。

(注)ちんあ【沈痾】〘名〙: いつまでも全快の見込みのない病気。ながわずらい。痼疾。宿病。宿痾。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

◆士也母 空應有 萬代尓 語継可 名者不立之而

      (山上憶良 巻六 九七八)

 

≪書き下し≫士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継(つ)ぐべき名は立てずして

 

(訳)男子たるもの、無為に世を過ごしてよいものか。万代までも語り継ぐにたる名というものを立てもせずに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

(注)「名をたてる」ことを男子たる者の本懐とする、中国の「士大夫思想」に基づく考え。

 

九七八歌の左注は、「右の一首は、山上憶良の臣が沈痾(ちんあ)の時に、藤原朝臣八束(ふじはらのおみやつか)、河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)を使はして疾(や)める状(さま)を問はしむ。ここに、憶良臣、報(こた)ふる語(ことば)已(を)畢(は)る。しまらくありて、涕(なみた)を拭(のご)ひ悲嘆(かな)しびて、この歌を口吟(うた)ふ。」である。

 

 四一六四・四一六五歌の左注にあるように憶良の九七八歌に追和する歌である。九七八歌の上二句「士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき」は、四一六四歌の前段の末二句「ますらをや 空(むな)しくあるべき」と据えられ、九七八歌の下三句「万代(よろづよ)に語り継(つ)ぐべき名は立てずして」は、後段の末三句「後(のち)の世(よ)の 語り継ぐべく 名を立つべしも」として据えられている。

伊藤 博氏は、さらに四一六五歌の脚注で、長歌前段の末尾に据えた「ますらをや 空(むな)しくあるべき」と後段の末尾に据えられた「後(のち)の世(よ)の 語り継ぐべく 名を立つべしも」をまとめて強調した歌になっている、と書かれている。

 

 もう一度、四一六五歌をみておこう。

「ますらをは名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね」

 

 憶良の九七八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その89改)で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 沈痾(長い間なおらない病気)の渦中にあっても憶良は九七八歌を詠った。歌は、ほどなく他界したのでいわば辞世の句となったのであるが、名をたてねばと訴える悲痛な叫びが、家持には強烈な印象を残したのであろう。

 家持は、「しなざかる越」越中で、いつかは都に戻り、「名を立てたい」という強い思いを内に秘めていたのであろう。

越中で、中国文学も勉強し、家持生涯の歌四百八十五首のうち半数近い二百二十首を詠んでいる。まさに歌の道は越中の生活があったからであろう。

古江の村に出挙の業務に出向く道すがら、日常のルーティンワークであるが故、心に空白ができ、ふっとこんなことをしていてよいのだろうかとの疑問が頭をよぎり、あれこれ考えるに至ったのであろう。心の奥深いところに秘めた、何時か都で花開かそうという気持ちが、憶良の歌に追和せしめたのであろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典