万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1359)―福井県越前市 万葉の里味真野苑(1)―万葉集 巻二 一六六

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

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福井県越前市 万葉の里味真野苑(1)万葉歌碑<プレート>(大伯皇女)



●歌碑(プレート)は、福井県越前市 万葉の里味真野苑(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

     (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 一六五・一六六歌の題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 

 一六五歌もみてみよう。

 

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

     (大伯皇女 巻二 一六五)

 

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(同上)

 

 一六五・一六六歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その173)」で紹介している。

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 梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 下」(新潮文庫)の中で、「万葉集の歌を一首ずつ切り離して観賞するくせがついているが、私は、こういう観賞法は根本的にまちがっていると思う。」として、巻三 二六三から二六七歌を挙げられ、「私は、この一連の歌は、けっして単独に理解されるべきものではなく、全体として理解されることによって、一連の歴史的事件と、その事件の中なる人間のあり方を歌ったものである―その意味で、万葉集はすでに一種の歌物語である―と思う・・・」と書かれている。これは、人麿が、近江以後、「彼は四国の狭岑島(さみねのしま)、そして最後には石見の鴨島(かもしま)へ流される。流罪は、中流から遠流へ、そして最後には死へと、だんだん重くなり、高津(たかつ)の沖合で、彼は海の藻くずと消える。」と主張されているのである。

 

 「一連の歌は、けっして単独に理解されるべきものではなく、全体として理解されることによって、一連の歴史的事件と、その事件の中なる人間のあり方を歌ったものである―その意味で、万葉集はすでに一種の歌物語である―と思う」との考えは、この大伯皇女の歌にも当てはまるのである。

 

 高橋睦郎氏は、「万葉集の詩性(ポエジー) 令和時代の心を読む」 中西 進 著 (角川新書)」の稿「いや重く謎」の中で、「・・・持統皇太子草壁(くさかべ)皇子、別名日並(ひなし)皇子の挽歌成立のためには、草壁立皇子のために持統が死なせしめた大津皇子の挽歌が成立しなければならない。『日並皇子尊(ひなみしみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あわ)せて短歌』の直前に大津皇子の挽歌が在るゆえんだ。」と書かれている。

 そして、題詞「大津皇子薨之後大来皇女従伊勢斎宮上京之時御作歌二首」<大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大伯皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首>と、一六三・一六四歌ならびに題詞と一六五.一六六歌を挙げられている。

 一六三・一六四歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その106改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご了承ください。)

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伊勢の斎宮については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その429)」で三重県多気明和町斎宮 斎王の森の歌碑を紹介していますのでこちらもご覧ください。

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 さらに「持統の子草壁立太子のための最大の障害として除かれた大津への同母姉の切切たる挽歌があって然(しか)るのちはじめて草壁すなわち日並皇子の挽歌が成立するという・・・編集の意図は、明らかすぎるほどあきらかだろう。」と書かれている。

 「日並皇子尊(ひなみしみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あわ)せて短歌」(一六七~一七〇歌)が挙げられ、「さらにこの後ろに

『皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二十三首』が続くが、それらの挽歌は草壁に献(ささ)げられるとともに草壁立太子の犠牲になった大津にも・・・献げられていると考えるべきではなかろうか。」と書かれている。(氏は、有間挽歌群にも触れ、雄略御製歌の増補も含めさらには万葉集の成立、増補を経て今日の形にいたった経緯等まで言及されておられるが、ここでは省略させていただきました。)

 

一七一~一九三歌までの二十三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その166改)」で紹介している。

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 石川県羽咋市の千里浜海岸の家持の歌碑を見る時に、北陸晩秋のスコールというような大雨と強風に見舞われ、予定を変更してここ福井県越前市万葉の里味真野苑を訪れたのであるが、嘘のような青空、手入れの行き届いた庭園の緑に心も身体も現れたような心地良さである。まさに地獄から天国のような感じである。

駐車場から下段の池の相聞歌碑を見て「比翼の丘」を散策中臣宅守と娘子の歌碑を巡った。苑内にはところどころに歌碑プレートが建てられている。

 ここ味真野苑は中臣宅守と狭野弟上娘子の悲劇の相聞歌群で被いつくされている。

 歌碑プレートも最初にとりあげさせていただくのは、大津皇子と大伯皇女の悲劇の挽歌である。

 万葉集におけるそれぞれの歌の位置づけを深く考えていく必要性が求められる。万葉集という名前の由来が万葉集と接する時間が長くなればなるほど

おぼろげながらわかって来るような気がする。しかし奥の深さ計り知れない。

 本稿からはしばらく味真野苑の歌碑プレートの歌を見てまいります。お付き合いいただきたくよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集の詩性(ポエジー) 令和時代の心を読む」 中西 進 著 (角川新書)」

★「水底の歌 柿本人麿論 下」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」