万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1360)―福井県越前市 万葉の里味真野苑(2)―万葉集 巻三 四五三

●歌は、「我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙し流る」である。

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福井県越前市 万葉の里味真野苑(2)万葉歌碑<プレート>(大伴旅人



●歌碑(プレート)は、福井県越前市 万葉の里味真野苑(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

四五一~四五三歌の題詞は、「還入故郷家即作歌三首」<故郷の家に還(かへ)り入りて、すなわち作る歌三首>である。

 

◆吾妹子之 殖之梅樹 毎見 情咽都追 涕之流

     (大伴旅人 巻三 四五三)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙(なみた)し流る

 

(訳)いとしいあの子が植えた梅の木、その木を見るたびに、胸がつまって、とどめもなく涙が流れる。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)見るごとに:追慕が将来かけてやむことのないことを匂わす。(伊藤脚注)

 

他の二首もみてみよう。

 

◆人毛奈吉 空家者 草枕 旅尓益而 辛苦有家里

     (大伴旅人 巻三 四五一)

 

≪書き下し≫人もなき空(むな)しき家は草枕旅にまさりて苦しくありけり

 

(訳)人気のないがらんとした家は、旅の苦しさにまして、やっぱり、何とも無性にやるせない。(同上)

(注)人もなき空(むな)しき家は:妻のいないがらんどうの家は。(伊藤脚注)

(注)下記に出てくる四四〇歌に対応する歌である。(伊藤脚注)

 

◆与妹為而 二作之 吾山齋者 木高繁 成家留鴨

     (大伴旅人 巻三 四五二)

 

≪書き下し≫妹としてふたり作りし我(わ)が山斎(しま)は木高(こだか)く茂(しげ)くなりにけるかも

 

(訳)かつてあの子と二人して作ったわが家の庭、この庭は、今はすっかり木立が高々と生い茂ってしまった。

(注)しま【島】名詞:①周りを水で囲まれた陸地。②(水上にいて眺めた)水辺の土地。③庭の泉水の中にある築山(つきやま)。また、泉水・築山のある庭園。◇「山斎」とも書く。④遊廓。色町。▽周囲から隔てられた特定の地域の意から。◇近世語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは③の意

 

旅人は、神亀四年(727年)に大宰帥に任ぜられ赴任している。これは大伴氏ら旧氏族に対抗する律令貴族たる藤原氏の陰謀と言われている。

そして翌神亀五年(728年)四月の初旬に妻を亡くしている。旅人は生涯七十二首の歌を残しているが、妻を偲ぶ、いわゆる亡妻悲傷歌を十三首詠っている。

万葉集には、巻三 四三八~四四〇歌、同 四四六~四五三歌、巻五 七九三、巻八 一四七三歌として収録されている。

 

上記に見た四五一~四五三歌以外をみてみよう。

 

まず巻三 四三八~四四〇歌である。

題詞は、「神龜五年戊辰大宰帥大伴卿思戀故人歌三首」<神亀(じんき)五年戊辰(つちのえたつ)に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、故人を思(しの)ひ恋ふる歌三首>である。

(注)神亀五年:728年

(注)故人:神亀五年に亡くなった旅人の妻をいう。

 

◆愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人将有哉

     (大伴旅人 巻三 四三八)

 

≪書き下し≫愛(うつく)しき人のまきてし敷栲(しきたへ)の我(わ)が手枕(たまくら)をまく人あらめや

 

(訳)いとしい人が枕にして寝た私の腕(かいな)、この手枕を枕にする人が亡き妻のほかにあろうか。あるものではない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)しきたへの【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞:「しきたへ」が寝具であることから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」などにかかる。(学研)

(注)めや 分類連語:…だろうか、いや…ではない。 ⇒なりたち推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」(学研)

 

左注は、「右一首別去而経數旬作歌」<右の一首は、別れ去(い)にて数旬を経(へ)て作る歌>である。

 

 

◆應還 時者成来 京師尓而 誰手本乎可 吾将枕

     (大伴旅人 巻三 四三九)

 

≪書き下し≫帰るべく時はなりけり都にて誰(た)が手本(たもと)をか我(わ)が枕(まくら)かむ

 

(訳)いよいよ都に帰ることができる時期となった。しかし、都でいったい誰の腕を、私は枕にして寝ようというのか。(同上)

(注)帰るべく時:旅人の帰京は、天平二年(730年)十二月。

(注)まく【枕く】他動詞:①枕(まくら)とする。枕にして寝る。②共寝する。結婚する。※ ②は「婚く」とも書く。のちに「まぐ」とも。上代語。(学研) ここでは①の意

 

 

◆在京 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦

    (大伴旅人 巻三 四四〇)

 

≪書き下し≫都にある荒れたる家にひとり寝(ね)ば旅にまさりて苦しかるべし

 

(訳)都にある人気のない家にたった一人で寝たならば、今の旅寝にもましてどんなにつらいことであろう。(同上)

(注)旅にまさりて:二句目の奈良の「家」に対して、異郷筑紫のわびしい生活をいう。

 

左注は、「右二首臨近向京之時作歌」<右の二首は、京に向ふ時に臨近(ちか)づきて作る歌>である

 

天平二年(730年)十月大納言となり、十二月に奈良の佐保の邸に戻っている。上京の途上も旅人は亡妻を思う歌をいくつも歌っているのである。

 旅人の愛妻ぶりは、時間を超越して心に響く。

 

題詞は、「天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首」<天平二年庚午(かのえうま)の冬の十二月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向ひて道に上る時に作る歌五首>

 

◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉

     (大伴旅人 巻三 四四六)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき

 

(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(同上)

(注)鞆の浦広島県福山市鞆町の海岸。

(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

◆鞆浦之 磯之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方

     (大伴旅人 巻三 四四七)

 

≪書き下し≫鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

 

(訳)鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木。この木をこれから先も見ることがあればそのたびごとに、行く時に共に見たあの子のことが思い出されて、とても忘れられないだろうよ。(同上)

 

 

◆磯上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可

     (大伴旅人 巻三 四四八)

 

≪書き下し≫磯の上に根延(ねば)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか

 

(訳)海辺の岩の上に根を張っているむろの木よ、行く時にお前を見た人、その人をどうしているかと尋ねたなら、語り聞かせてくれるであろうか。(同上)

 

四四六から四四八歌の三首の左注が、「右三首過鞆浦日作歌」<右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌>である。

 

この三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。

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◆与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨之見者 涕具末之毛

     (大伴旅人 巻三 四四九)

 

≪書き下し≫妹(いも)と来(こ)し敏馬(みぬめ)の崎を帰るさにひとりし見れば涙(なみた)ぐましも

 

(訳)行く時にあの子と見たこの敏馬の埼を、帰りしなにただ一人で見ると、涙がにじんでくる。(同上)

(注)敏馬に「見ぬ妻」を匂わせる(伊藤脚注)

 

 

◆去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲喪  <一云見毛左可受伎濃>

     (大伴旅人 巻三 四五〇)

 

≪書き下し≫行くさにはふたり我(あ)が見しこの崎をひとり過ぐれば心(こころ)悲しも <一には「見もさかず来ぬ」といふ>

 

(訳)行く時には二人して親しく見たこの敏馬の崎なのに、ここを今一人で通り過ぎると、心が悲しみでいっぱいだ。<遠く見やることもせずにやって来てしまった。>(同上)

 

四四九・四五〇歌の左注は、「右二首過敏馬埼日作歌」<右の二首は、敏馬の﨑を過ぐる日に作る歌>である。

 

 この二首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506~番外)」の番外編で紹介している。

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 奈良の家に帰ってからも亡き妻を偲んで詠ったのが歌碑<プレート>の歌を含む四五一から四五三歌である。

 

 続いて巻五 七九三歌である。

 

◆余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理

     (大伴旅人 巻五 七九三)

 

≪書き下し≫世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

 

(訳)世の中とは空しいものだと思い知るにつけ、さらにいっそう深い悲しみがこみあげてきてしまうのです。(同上)

(注)上二句は「世間空」の翻案。

(注)いよよ【愈】副詞:なおその上に。いよいよ。いっそう。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その909)」で紹介している。

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 巻八 一四七三歌をみてみよう。

 題詞は、「大宰帥大伴卿和歌一首」<大宰帥大伴卿が和(こた)ふる歌一首>である。

 

◆橘之 花散里乃 霍公鳥 片戀為乍 鳴日四曽多毛

      (大伴旅人 巻八 一四七三)

 

≪書き下し≫橘の花散(ぢ)る里のほととぎす片恋(かたこひ)しつつ鳴く日しぞ多き

 

(訳)橘の花がしきりに散る里の時鳥、この時鳥は、散った花に独り恋い焦がれながら、鳴く日が多いことです。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)片恋しつつ:亡妻への思慕をこめる

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その896)」で紹介している。

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大伴旅人の妻である大伴女郎については、藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)のなかで、「この女性は家持・書持・家持の妹(留女之女郎)の実母ではない。彼女は旅人が家持らを連れて九州へ下った際に同行したが、短い期間のうちに病で亡くなったことになる。少年期における家持・書持らの実際の養育環境は旅人の奈良の『宅(いえ)』を中心としていたが、太宰府の期間を含む幼少時代の生活は、この義母に支えられていたとみて過言ではない。」と書かれている。

 

大伴女郎についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1078)」で紹介している。

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 旅人の歌は、時間軸を折り曲げたり、時間軸に絡めた空間軸との接点の大小を上手く使い、妻への思いを詠いあげている。大胆なように見えるがその繊細さには完全に脱帽である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社新書)

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」