万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1373)―福井県越前市 万葉の里味真野苑(15)―万葉集 巻十九 四二八九

●歌は、「青柳のほつ枝攀じ取りかづらくは君がやどにし千年寿くとぞ」である。

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福井県越前市 万葉の里味真野苑(15)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、福井県越前市 万葉の里味真野苑(15)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「二月十九日於左大臣橘家宴見攀折柳條歌一首」<二月の十九日の、左大臣橘家の宴(うたげ)にして、攀(よ)ぢ折れる柳の条(えだ)を見る歌一首>である。

 

◆青柳乃 保都枝与治等理 可豆良久波 君之屋戸尓之 千年保久等曽

       (大伴家持 巻十九 四二八九)

 

≪書き下し≫青柳(あおやぎ)のほつ枝(え)攀(よ)ぢ取りかづらくは君がやどにし千年(ちろせ)寿(ほ)くとぞ

 

(訳)青柳の秀(ほ)つ枝(え)を引き寄せ折り取って、縵にするのは、我が君のお屋敷に誰も彼もがこうしてうち集うて、千年のお栄えを願ってのことでございます。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ほつえ【上つ枝・秀つ枝】名詞:上の方の枝  ※「ほ」は突き出る意、「つ」は「の」の意の上代の格助詞。上代語。[反対語] 中つ枝(え)・下枝(しづえ)。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ほく【祝く・寿く】他動詞:祝い言を唱える。ことほぐ。祝う。 ※後世は「ほぐ」。(学研)

 

 題詞にあるように、天平勝宝五年(753年)二月十九日の左大臣橘諸兄宅での宴であるが、参加者の歌を記載していない。宴の歌の収録にしては特異である。

 家持の心境を探るべく、この前後をみてみよう。

 

 同年正月の四日に開かれた石上朝臣宅嗣(いそのかみのあそんやかつぐ)の家での宴の歌は、宅嗣、茨田王(まむたのおほきみ)、道祖王(ふなどのおほきみ)の歌三首は収録されているが、家持の歌はそこにはない。

 

 この前は、前年十一月二十七日に橘奈良麻呂の送別の宴の歌である。

藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)のなかで、宴に関して「林王(はやしのおおきみ)の宅で、但馬按察使(たじまのあぜち)の橘奈良麻呂を餞(はなむけ)する宴が催され、治部卿御船王、右京少進大伴黒麻呂や少納言大伴家持らが歌を詠んだ。これは天平勝宝四年(七五二)一一月三日、参議・従四位上橘奈良麻呂が但馬・因幡(いなば)按察使に任じられ、あわせて伯耆(ほうき)・出雲・石見(いわみ)国などの非違を取り締まることを命じられたからである。任命が一一月初旬、餞別が下旬なので山陰に向けて出発する時期が近かったのであろう。」と書かれている。

この人事は、藤原仲麻呂の意向がかかっているとみるべきであろう。

この時詠んだ家持の歌をみてみよう。

 

◆白雪能 布里之久山乎 越由加牟 君乎曽母等奈 伊吉能乎尓念,伊伎能乎尓須流

       (大伴家持 巻十九 四二八一)

 

≪書き下し≫白雪(しらゆき)の降り敷く山を越え行かむ君をぞもとな息(いき)の緒(を)に思ふ

 

(訳)白雪の降り敷く山、その山を越えて行かれるあなた、そんなあなたをむしょうに息も絶えるばかりに思っています。(同上)

(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)

(注)いきのを【息の緒】名詞:①命。②息。呼吸。 ⇒参考 「を(緒)」は長く続くという意味。多くは「いきのをに」の形で用いられ、「命がけで」「命の綱として」と訳される。(学研)

 

 奈良麻呂の姿に家持は自分のこれからの姿を見ていたのかもしれない。

 そして、歌碑(プレート)の四二八九歌の次に収録されている三首(四二九〇、四二九一、四二九二歌)が、「春愁三首」とか「春愁絶唱三首」と呼ばれている。これらをみてみよう。

 

四二九〇・四二九一歌の題詞は、「廿三日依興作歌二首」<二十三日に、興の依りて作る歌二首>である。

 

◆春野尓 霞多奈▼伎 宇良悲 許能暮影尓 鸎奈久母

      (大伴家持 巻十九 四二九〇)

 ※ ▼は「田+比」である。「多奈▼伎」=「たなびき」

 

≪書き下し≫春の野に霞(かすみ)たなびきうら悲しこの夕影(ゆふかげ)にうぐひす鳴くも

 

(訳)春の野に霞がたなびいて、何となしに物悲しい。この夕暮れのほのかな光の中で、鴬がないている。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆふかげ【夕影】名詞:①夕暮れどきの光。夕日の光。[反対語] 朝影(あさかげ)②夕暮れどきの光を受けた姿・形。(学研)ここでは①の意

 

 

◆和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敕可母

      (大伴家持 巻十九 四二九一)

 

≪書き下し≫我がやどのい笹(ささ)群竹(むらたけ)吹く風の音のかそけきこの夕(ゆうへ)かも

 

(訳)我が家の庭の清らかな笹の群竹、その群竹に吹く風の、音の幽(かす)かなるこの夕暮れよ。(同上)

 

題詞は、「廿五日作歌一首」<二十五日に作る歌一首>である。

 

◆宇良ゝゝ尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比登里志於母倍婆

      (大伴家持 巻十九 四二九二)

 

≪書き下し≫うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思えば

 

(訳)おんぼりと照っている春の光の中に、ひばりがつーん、つーんと舞い上がって、やたら心が沈む。ひとり物思いに耽(ふけ)っていると。(同上)

(注)うらうら(と・に)副詞:のどか(に)。うららか(に)。(学研)

(注)ひとりし思えば:伊藤 博氏は脚注で、「三首の春愁の拠って来る根源を示す表現。人間存在そのものの孤独感を自覚した言葉で、『ひとり』に『思う』を連ねる言い方は、集中この一例のみ」と書かれている。

 

 春愁三歌は絶唱といわれている。極端な苦しみの境地は往々にして芸術性を高める傾向がある。越中時代に培った中国文学や歌の素養、そこに藤原氏の台頭により家持は、大伴一族の没落を皮膚感覚として感じ、もはや苦悩に近い極限まで追い詰められている、そういった苦悩が逆に家持の芸術性を極限まで高める作用として働いているといっても過言ではない。

 

この三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その551)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 さらに次に収録されているのは、家持が天平勝宝五年に聞いたとされる四二九三、四二九四歌である。

 それ以降で家持の歌が収録されているのは同年八月十二日に高円の野に登り、池主や中臣清麻呂らと共に過ごした時である。

 二月二五日以降家持の歌は収録されていないのである。

 

 橘奈良麻呂の但馬按察使として赴任するにあたり餞する宴以降の歌は「春愁三歌」にみられるように、内向的な色彩の強い歌が多く、また歌数も少ないことは、藤原仲麻呂の権勢の拡大による頼みとする橘諸兄の影が薄くなっていく状況に己自身の先行きの不安を痛切に感じていたからであろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」