●歌は、「味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ」である。
●歌をみていこう。
◆安治麻野尓 屋杼礼流君我 可反里許武 等伎能牟可倍乎 伊都等可麻多武
(狭野弟上娘子 巻十五 三七七〇)
≪書き下し≫味真野(あじまの)に宿れる君が帰り来(こ)む時の迎へをいつとか待たむ
(訳)味真野に旅寝をしているあなたが、都に帰っていらっしゃる時、その時のお迎えの喜びを、いつと思ってお待ちすればよいのでしょうか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)やどる【宿る】自動詞:①旅先で宿を取る。泊まる。宿泊する。②住みかとする。住む。一時的に住む。③とどまる。④寄生する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
味真野苑の下段の池、比翼の丘の相聞歌ならびに苑内の万葉歌碑(プレート)を堪能した。しかもあの羽咋市の地獄のような北陸スコールの後の青空の下での散策である。
次は、万葉館から「継体大王と照日の前」の像の方に向かう。
万葉館正面の入口左手に、モニュメントと歌碑プレートが建っている。それぞれ中臣宅守と狭野弟上娘子の歌かと思いきや、娘子の三七七〇歌の万葉仮名(向かって右)と書き下し(同左)となっている。
越前市HPの万葉館の説明は、「越前市・味真野は、平城の都からこの地に流された中臣宅守(なかとみのやかもり)と都で宅守を思う狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)の悲しい恋の歌の舞台として知られています。二人の間で詠まれた情熱的な歌は万葉集に63首も残されています。
また、万葉集を代表する歌人・大伴家持と大伴池主との間で交わされた歌にも、越前市・武生がその舞台となっているものもあります。
これらにちなんで整備されたのが万葉の里味真野苑です。苑内では、四季折々咲く花とともに万葉の植物を鑑賞できます。万葉集のロマンと恋の歌をコンセプトに作られた『万葉館』にぜひご来館ください。」と書かれている。
説明文中にある「大伴家持と大伴池主との間で交わされた歌」は次の通りである。
天平十九年(747年)秋ごろ、大伴池主は越掾から越前掾に転じている。
越前掾として越中との国境近く(深見の村:石川県河北郡津幡町付近)まで来て家持のいる越中国府の方向を見ながら感慨深く詠った歌を家持に贈っている。これに対し家持が報(こた)えた歌が収録されている。
池主の歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1370)」で紹介している。
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池主の歌に対して家持が報(こた)えた歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その936)」で紹介している。
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「正税帳使掾久米朝臣廣縄事畢退任 適遇於越前國掾大伴宿祢池主之舘 仍共飲樂也 于時久米朝臣廣縄矚芽子花作歌一首」<正税帳使(せいせいちやうし)、掾(じよう)久米朝臣広縄(くめのあそみひろつな)、事畢(をは)り、任(にん)に退(まか)る。たまさかに越前(こしのみちのくち)の国の掾大伴宿禰池主が館に遇(あ)ひ、よりて共に飲楽す。時に、久米朝臣広縄、萩の花を矚(み)て作る歌一首>とあるように、家持、池主、久米広縄が、偶然池主の家で「遇ひ、よりて共に飲楽」した時の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1372)」で紹介している。(広縄と家持の歌はあるが池主の歌はない)
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万葉館正面を右に行くと「継体大王花がたみ像、恋のパワースポット」の方に通じている。
越前市HPには、「味真野苑の西側、味真野神社に隣接して『継体大王(けいたいだいおう)と照日の前(てるひのまえ)の像』があります。1500年前、『継体大王と照日の前は味真野の地で仲むつまじく暮らしていましたが、大王が天皇として迎えられた際に、手紙と花筐(はなかご)を照日の前に残し都へ上られました。照日の前は大王が恋しいあまり狂女となって都に向かい天皇の行列の前で花筐を持って美しく舞い、天皇は再会を喜び、都でも仲良く幸せにくらした』という二人の美しいロマンスが室町時代に世阿弥が作った謡曲『花筐(はながたみ)』に語られています。二人の銅像が佇んで見つめているエリアは、平成30年(2018)に『恋のパワースポット』として整備されています 。」と書かれている。
(注)けいたいてんのう【継体天皇】:記紀で、第26代天皇。名は男大迹(おおど)。武烈天皇没後嗣子がなく、大伴金村・物部麁鹿火(あらかびら)に越前から迎えられて河内(かわち)で即位したと伝えられる。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
大伴金村の名は、「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(藤井一二 著 中公新書)の「大伴氏関係図」の中に「・・・金村(かなむら)―咋子(おくいこ)―長徳(ながとこ)―安麻呂―旅人―家持―永主」の家系図に見られる。
大伴金村は大伴氏の最盛期を築くも朝鮮政策の失政から失脚。その後安麻呂が壬申の乱で功績をあげ立てなおすも、その後藤原氏の台頭により衰退が加速され、大伴旅人、家持の代は大伴氏にとって茨の道となり、橘奈良麻呂の変で壊滅的ダメージを受けるのである。
大伴安麻呂の歌は三首が収録されている。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その900)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「越前市HP」