●歌は、「三国山木末に棲まふむささびの鳥待つごとく我れ待ち痩せむ」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「寄獣」<獣に寄す>である。
◆三國山 木末尓住歴 武佐左妣乃 此待鳥如 吾俟将痩
(作者未詳 巻七 一三六七)
≪書き下し≫三国山(みくにやま)木末(こぬれ)に棲まふむささびの鳥待つごとく我(あ)
れ待ち痩(や)せむ
(訳)三国山の梢(こずえ)に棲(す)んでいるむささびが鳥を待つように、私はあの人を待ってやつれてしまうことであろう。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)こぬれ【木末】名詞:木の枝の先端。こずえ。 ※「こ(木)のうれ(末)」の変化した語。上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌ならびに「むささび」を詠んだ歌三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1039)」で紹介している。こちらは大阪府堺市の方違神社の一三六七歌の歌碑である。
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福井県坂井市の三国神社の由来をみてみよう。同社のHPに次のように書かれている。
天文9年(1540)湊の住人・板津清兵衛が高柳村より流れて来た御神体を拾い上げ正智院に納める。
天文13年(1544)院主・澄性小社を建立。
さらに、永禄7年(1564)澄性の弟子・澄元國中を勧進し桜谷を開き社地を開発・山王宮を建立する。
この山王宮の祭神が先に高柳村より流れ来た御神体・大山咋命(山王権現)である。
明治5年興ケ丘にあった、水門宮の御神体・継体天皇を桜谷神社に合祀をする。
歌碑は、下記の矢印で示した三国神社の裏山にある桜谷公園にあった。
前日の羽咋市で強烈な北陸スコールに遭遇し予定の変更を余儀なくされた。
以前、大阪の堺市の方違神社にこの歌の歌碑を見に行き、福井県坂井市の三国神社にも同じ歌の歌碑があると知ったので、経路的には効率が悪いが外したくない。11月12日の朝一に、ここ三国神社の歌碑を巡ることにしたのである。
事前の下調べで神社裏山の桜谷公園にあるのが分かっていたので三国神社には寄らないで一気に小高い山を登りきり公園に。
しかしそこから歌碑を見つけ出すのが一苦労であった。桜谷公園とあるがこじんまりとした児童公園である。その周りには、神社の裏山らしく古びた小さな社や石碑がある。このような万葉歌碑がありそうなところをあちこち探して歩くが見つからない。神社の方まで少し歩いて下るが見つからない。
あきらめて、公園の方へ戻りかけたとたん、またしても土砂降りの雨が。何でっ!?て叫びたくなる。
雨に濡れる時間が短かったので全身に雨を浴びたがが、表層濡れで浸透は少なかった。しかし冷たい。車に戻るや、車内温度を上げ、小振りになるのを待つ。ここまで来たら執念である。もう一度探して歩くしかない。
探していないところといえば、車を停めている側の遊具などがある歌碑とはおよそ無縁と思われる公園しかない。しかし、どう見ても児童公園である。遊具はあるは、公園の名前の碑には小人が二人愛嬌を振りまいている。見渡しても歌碑らしいものはない。
あきらめるわけにはいかない。小振りになったので再探索。
念のためとその遊具のある公園の周りを探ってみる。何と公園の縁から少し入った茂みの中に歌碑が佇んでいたのである。案内板もない。しかし文句は言えない。確かに桜谷公園に歌碑はあったのである。歌碑とは無縁だと思い込んでいた自分が悪いのである。何はともあれ見つかってよかった。
大阪府堺市の方違(ほうちがい)神社の「由緒」に「摂津、河内、和泉の三国の境界なるが故に、“三国山”また“三国丘”とも称され、この三国の境(ちなみに“堺”の地名はこれに由来する)で何処の国にも属さない方位の無い清地であるという考え方に依り、(中略)方災除の神として御神徳を仰ぐ参詣者が全国より訪れます。」とあるように、三国と堺の由来が書かれている。
一方、坂井市の三国神社の三国は、神社のある山が三王山(旧称三国山)と呼ばれていたからであるという。
坂井市の謂われを調べてみると、「北陸新幹線で行こう 北陸・信越観光ナビ」HPに「坂井市の成り立ち詳しく紹介 行政文書や絵図展示、龍翔館」という記事の中に、「坂井市は、2006年に三国、丸岡、春江、坂井の4町が合併し誕生。その旧4町も1889年の町村制施行で生まれた町村の合併で成立した。」と書かれていた。坂井そのものについての言及はなかったが。
坂井市と堺市の三国山のむささびはいずれの地で詠まれたのだろう。これも万葉ロマンである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「坂井市三国神社HP」