万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1382)―福井県越前市 万葉ロマンの道(1)―万葉集 巻十五 三七二三

●歌は、「あしひきの山道越えむとする君を心に待ちて安けくもなし」である。

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福井県越前市 万葉ロマンの道(1)万葉歌碑道標(狭野弟上娘子)

●歌碑は、福井県越前市 万葉ロマンの道(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安之比奇能 夜麻治古延牟等 須流君乎 許々呂尓毛知弖 夜須家久母奈之

      (狭野弟上娘子 巻十五 三七二三)

 

≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)越えむとする君を心に持ちて安けくもなし

                           

(訳)山道を遠く越えて行こうとするあなた、そのあなたを心に抱え続けて、この頃は安らかな時とてありません。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)もつ【持つ】他動詞:①持つ。所持する。所有する。②ある状態を保つ。維持する。③心に抱く。思う。④使う。用いる。▽連用形で用いて。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは③の意

(注)やすけく【安けく】:心が安らかであること。 ※派生語。 ⇒なりたち 形容詞「やすし」の古い未然形+接尾語「く」(学研)

 

 三七二三歌は、中臣宅守と狭野弟上娘子との贈答歌六十三首(三七二三から三七八五歌)

の先頭歌である。二人の悲劇の幕開けの歌である。

 

 樋口清之氏は、その著「万葉の女人たち」(講談社学術文庫)の中で、「流謫行(るたくこう)、それはいつの日に帰り来る旅とも知れぬ旅です。それでなくとも我が身ゆえに起こった流謫であってみれば、おとめの心はただ思い乱れて乱れて片時も安まることの出来なかったのは、また当然といわなければならないでしょう。」と書いておられる。

(注)るたく【流謫】[名](スル):罪によって遠方へ流されること。遠流。りゅうたく。(goo辞書)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1356①)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 「山道」と聞くと、柿本人麻呂の「泣血哀慟歌」が頭に浮かぶ。(二〇八、二一二、二一五歌) 

二一二歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その58改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦ください。)

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 山道らしい山道をみてみよう。

 

題詞は、「天皇御製歌」<天皇(すめらみこと)の御製歌>である。

(注)天皇:ここでは天武天皇

 

◆三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道

       (天武天皇 巻一 二五)

 

≪書き下し≫み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間(ま)なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道(やまみち)

 

(訳)ここみ吉野の耳我の嶺に時を定めず雪は降っていた。絶え間なく雨は降っていた。その雪の定めもないように、その雨の絶え間ないように、長の道中ずっと物思いに沈みながらやって来たのであった。ああ、その山道を。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)み吉野;ほめ言葉ミを冠する地名は、上代では吉野・熊野・越の三つのみ。(伊藤脚注)

(注)耳我の嶺:「万葉集には天武天皇の御製として『み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は降りける』(1-25)と、『耳我の嶺』を詠った歌があり、この歌の類似歌として『み吉野の 御金の岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るという』(13-3293)という1首がある。ここに詠まれる『耳我の嶺』と『御金の岳』を同じ嶺とみて、耳我の嶺は吉野山中にある金峰山、あるいは同郡天川村洞川の山上ケ岳ともされる。また、『ミミガ谷』の小字が残ることから、奈良県吉野郡吉野町平尾付近ともされる。いずれにしても、吉野とそこにまつわる耳我の嶺の地名は、出家した天武天皇がその山中を徘徊し、この地から挙兵、壬申の乱を戦い勝って即位したという神話的表現の一種として歌に詠まれ、歌い継がれていったのである。」(万葉神事語事典 國學院大學デジタルミュージアム

 

 「山道」と聞くだけで、草木を踏み固めながら進む、獣道に毛が生えた程度の道かと勝手に思って、道の管理なんかどうするのだろうと考えてしまう。次の一二六一歌を読んで、「山守」には山の道の管理という仕事もになっていたのだろうかとも考えてしまう。

 

◆山守之 里邊通 山道曽 茂成来 忘来下

       (作者未詳 巻七 一二六一)

 

≪書き下し≫山守の里へ通ひし山道ぞ茂くなりける忘れけらしも

 

(訳)山守が里へと通っていた山道、その道には草が生い茂ってきた。山守は通うことなどもおう忘れてしまったらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)山守」山の番人。男の譬え。(伊藤脚注)

(注)茂くなりける:疎遠になったことを言う。(伊藤脚注)

 

 しかし、よくよく考えてみると、家持が越中に赴任、仕事で上京したり、大嬢が下向したり、はてまた家持の部下の尾張少咋の左夫流子(さぶるこ)との不倫騒動で「鈴懸けむ駅馬」で古女房が駆け付けたりと(四一一〇歌)、また高橋虫麻呂藤原宇合が「西海道節度使に遣わさゆる時」に詠った歌などを考えてみると、改めて「道」について知りたくなったので調べてみたのである。

 国土交通省のHPの古代の道路整備状況をみて自分の無知さに恥じ入ったのである。

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国土交通省HP「道路関係史年表」より引用させていただきました。



 

 中臣宅守は「北陸道」を通って配所の味真野に送られたのであろう。「山道」は山道のような、厳しい状況が続く長い道のりを象徴している。

 中臣宅守・狭野弟上娘子にとって、その道は「山道」でしかないのである。

 

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「万葉ロマンの道」解説案内マップ

「万葉ロマンの道」については、越前市HPに次のように記されている。

「味真野地区には、万葉集に詠まれた恋の歌をテーマとする万葉の里味真野苑と万葉館及び隣接する万葉菊花園があり、万葉の里味真野の拠点となっています。

また、五分市本山『毫攝寺』、城福寺や小丸城跡などの観光資源があります。これらの地点にポケットパークとして万葉歌碑を設置し、『小奈良』ともいえるこの地域全体を万葉の里と位置づけてきました。

味真野観光協会では万葉ロマンの観光振興に資するため、平成21年度から3カ年計画で『万葉ロマンの道』整備事業として、これら味真野地区の観光名所をつなぐルートに万葉歌碑道標(灯籠)63基(中臣宅守と狭野弟上娘子の相聞歌)を設置しています。」

 

 残念ながら、今回はすべての万葉歌碑道標を写していない。機会があればまた訪れてみたいものである。

 この万葉ロマンの道の歌碑の紹介は、いろいろと重複している歌があるが、歌に使われている語彙や風土的なものをピックアップして自分なりに万葉集への広がりに挑戦して行きたい。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタルミュージアムHP)

★「道路関係史年表」 (国土交通省HP)

★「越前市HP」