万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1387)―福井県越前市 万葉ロマンの道(6)―万葉集 巻十五 三七二八

●歌は、「あをによし奈良の大道は行きよけどこの山道は行き悪しかりけり」である。

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福井県越前市 万葉ロマンの道(6)万葉歌碑(中臣宅守

●歌碑は、福井県越前市 万葉ロマンの道(6)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆安乎尓与之 奈良能於保知波 由吉余家杼 許能山道波 由伎安之可里家利

      (中臣宅守 巻十五 三七二八)

 

≪書き下し≫あをによし奈良の大道(おほち)は行きよけどこの山道(やまみち)は行き悪しかりけり

 

(訳)あをによし奈良、あの都大路は行きやすいけれども、遠い国へのこの山道は何とまあ行きづらいことか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 三七二七から三七三〇歌の四首の左注は、「右の四首は、中臣朝臣宅守、道に上りて作る歌」である。

 この「道」とは、中臣宅守が配所に送られる道のことである。狭野弟上娘子が三七二三歌で詠んだ「山道」であり、三七二四歌の「道」そのものである。

 「山道」については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1382)」で「山道のような、厳しい状況が続く長い道のりの象徴」と書いたが、その「道」で宅守が娘子を思って詠んだ歌なのである。

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 本稿では、「奈良の大道」と「山道」をみてみよう。

 

■■■奈良の大道■■■

 三七二八歌では、「奈良の大道は行きよけど」と詠われている。まず「都大路」について調べてみよう。

 

「奈良の大道」は、具体的にはどの道を指すのか分からないが、多分、娘子に逢うためにいそいそと通った道なので、行きよいのであろうが、大道というので平城京朱雀大路をみてみよう。

 

奈良市HPの「文化財」のコンテンツ「平城京朱雀大路跡」には次のように書かれている。

 「朱雀大路(すざくおおじ)は、奈良の都平城京(710~784年)のメインストリートです。南北約3.7km、路面幅約70mの規模で、都の正門である羅城門から平城宮の南正門の朱雀門までを一直線に結ぶ大路でした。現在、平城宮跡から大宮通りまでの南北約220m(幅約90m)の範囲が国の史跡に指定されています。

大路の名は、天皇の住まいのある平城宮の南正面に位置する道路であることから、『朱雀門』と同じく、東西南北の四方向を守る四神(玄武・白虎・朱雀・青龍)の中で、南を守るとされる神『朱雀』から付けられました。この朱雀大路を基準に、碁盤の目に区切られた平城京の都市が計画されました。大路の東側を左京、西側を右京と呼んでいます。(中略)また、羅城門で出迎えた外国の使節を、この朱雀大路を通り、平城宮へと案内するため、朱雀大路は都の大路の中で最も大きく立派に造られていました。広い道路の両側には街路樹として柳が植えられ、広い道路の側溝と高く築かれた築地塀(坊垣)が延々と続く荘厳な景観は、奈良の都の象徴でした。」

 

 「羅城門」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その15改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

 平城京羅城門跡公園の歌碑は、三七二八歌の詠いだしと同じ小野老の「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛なり(三二八歌)」の歌碑である。

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 さらに、奈良文化財研究HP「なぶけんブログ」の「平城京と大和三道」には次のように書かれている。

 「みなさんは奈良の都、平城京の場所がどのようにして決められたか、知っていますか? 何も考えずに決められたわけではありませんよ? 

 奈良盆地には、平城京がつくられる前から、東西方向と南北方向に走る複数の直線道路がありました。現在の国道のルーツともいうべき道路です。平城京はこうした直線道路を基準に、きちんとした都市計画のもとにつくられているのです。

 その基準となった道路とは、奈良盆地を約2.1キロメートルの等間隔で平行して走る3本の南北古道です。東から上ツ道、中ツ道、下ツ道とよばれています。このうち、幅約24メートルの下ツ道を3倍に拡幅するようにして、平城京のメインストリートである朱雀大路がつくられました。また、中ツ道を平城京の左京のほぼ東端としました。

 しかも驚くことに、この中ツ道と下ツ道は、平城京のひとつ前の都の藤原京でも、京内の重要な南北道路となっていました。藤原宮はそのちょうど真ん中に置かれているのです。いずれの都も直線の南北道路を、都づくりの重要な基準線に利用したのですね。

 平城宮朱雀門から、はるか20キロメートル南の藤原京まで、まっすぐ延びる古代の国道があったと考えると、何だかワクワクしませんか。」

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 藤原京平城京と大和三道の位置。南北に走るのが(右から)上ツ道、中ツ道、下ツ道 奈良文化財研究HP「なぶけんブログ」の「平城京と大和三道」より引用させていただきました。

■■■山道■■■

 次は、「山道」をしらべてみよう。

 

 中臣宅守平城京から配所の味真野に送られるルートを考えるにあたり参考になる歌がある。まず、宅守の三七三〇歌に「み越道(こしぢ)の手向け」とあることから、奈良山を越えて山城を通り逢坂山を越えて琵琶湖西岸を北上したものと思われる。

(注)み越道(こしぢ)の手向け:畿内と近江との境の逢坂山。(伊藤脚注)

 

 奈良山を越えて逢坂山に至る道に関しては次の歌がある。

 

◆空見津 倭國 青丹吉 常山越而 山代之 管木之原 血速舊 于遅乃渡 瀧屋之 阿後尼之原尾 千歳尓 闕事無 万歳尓 有通将得 山科之 石田之社之 須馬神尓 奴左取向而 吾者越徃 相坂山遠

      (作者未詳 巻十三 三二三六)

 

≪書き下し≫そらみつ 大和(やまと)の国 あをによし 奈良山(ならやま)越えて 山背(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡り 滝(たき)つ屋の 阿後尼(あごね)の原を 千年(ちとせ)に 欠くることなく 万代(よろづよ)に あり通(かよ)はむと 山科(やましな)の 石田(いはた)の杜(もり)の すめ神(かみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 我(わ)れは越え行く 逢坂山(あふさかやま)を

 

(訳)そらみつ大和の国、その大和の奈良山を越えて、山背の管木(つつき)の原、宇治の渡し場、岡屋(おかのや)の阿後尼(あごね)の原と続く道を、千年ののちまでも一日とて欠けることなく、万年にわたって通い続けたいと、山科の石田の杜の神に幣帛(ぬさ)を手向けては、私は越えて行く。逢坂山を。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)そらみつ:[枕]「大和(やまと)」にかかる。語義・かかり方未詳。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)奈良山:奈良県北部、奈良盆地の北方、奈良市京都府木津川(きづがわ)市との境界を東西に走る低山性丘陵。平城山、那羅山などとも書き、『万葉集』など古歌によく詠まれている。古墳も多い。現在、東半の奈良市街地北側の丘陵を佐保丘陵、西半の平城(へいじょう)京跡北側の丘陵を佐紀丘陵とよぶ。古代、京都との間に東の奈良坂越え、西の歌姫越えがあり、いまは国道24号、関西本線近畿日本鉄道京都線などが通じる。奈良ドリームランド(1961年開園、2006年閉園)建設後は宅地開発が進み、都市基盤整備公団(現、都市再生機構)によって平城・相楽ニュータウンが造成された。(コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

(注)管木之原(つつきのはら):今の京都府綴喜郡同志社大学田辺キャンパスがある。

(注)岡谷:宇治市宇治川東岸の地名

(注)石田の杜:「京都市伏見区石田森西町に鎮座する天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ・旧田中神社・石田神社)の森で,和歌の名所として『万葉集』などにその名がみられます。(中略)現在は“いしだ”と言われるこの地域ですが,古代は“いわた”と呼ばれ,大和と近江を結ぶ街道が通り,道中旅の無事を祈って神前にお供え物を奉納する場所でした。」(レファレンス協同データベース)

(注)あふさかやま【逢坂山】:大津市京都市との境にある山。標高325メートル。古来、交通の要地。下を東海道本線のトンネルが通る。関山。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)すめ神:その土地を支配する神

 

 この歌ならびに石田の杜に関する歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その553)」で紹介している。

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 逢坂山を越えればそこは近江海(琵琶湖)であった。

 

◆相坂乎 打出而見者 淡海之海 白木綿花尓 浪立渡

      (作者未詳 巻十三 三二三八)

 

≪書き下し≫逢坂(あふさか)をうち出(い)でて見れば近江の海白木綿花(しらゆふばな)に波立ちわたる。

 

(訳)逢坂の峠をうち出て見ると、おお、近江の海、その海には、白木綿花のように波がしきりに立ちわたっている。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)白木綿花(読み)しらゆうばな:白木綿を花に見立てた言い方。波や水の白さのたとえとして用いられる。(コトバンク デジタル大辞泉

(注の注)ゆふ【木綿】名詞:こうぞの樹皮をはぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細く裂いて糸状にしたもの。神事で、幣帛(へいはく)としてさかきの木などに掛ける。(学研)

 

 三二三六、三二三八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その995)」で紹介している。

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 そこから琵琶湖の西岸の西近江路を通って行ったのであろう。

 西近江路については、「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典」に「滋賀県,琵琶湖西岸を南北に通る古代の北陸道栃ノ木峠越の東近江路に対する名。現国道 161号線にほぼ相当。京都から大津、高島市海津を経て福井県敦賀市にいたる。敦賀から海津までを七里半越または七里半街道とも呼ぶ。(後略)」と書かれている。

 

 西近江路についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その248)」で紹介している。

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 そして、国境には、愛発関(あらちのせき)が置かれていた。

 

愛発関については、「コトバンク 旺文社日本史事典 三訂版」に「古代、越前国福井県)と近江国滋賀県)の国境に置かれた北陸道の関。天智天皇治世期の設置とされる。伊勢の鈴鹿 (すずか) 、美濃の不破 (ふわ) とともに古代三関の一つに数えられた。789年廃止。」と書かれている。

 

 愛発山を詠った歌は、次の通りである。

 

◆八田乃野之 淺茅色付 有乳山 峯之沫雪 寒零良之

       (作者未詳 巻十 二三三一)

 

≪書き出し≫八田(やた)の野(の)の浅茅(あさぢ)色(いろ)づく有乳山(あらちやま)嶺(みね)の沫雪(あわゆき)寒く降るらし

 

(訳)八田の野の浅茅も色づいてきた。この分では、北の方(かた)有乳の山の峰には、泡雪が寒々と降っているらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)八田の野:奈良県大和郡山市矢田付近の野か。(伊藤脚注)

(注)有乳山(あらちやま):福井県敦賀市。近江から越前へ越える要路の山。(伊藤脚注)

 

 平群女郎越中の家持に贈った三九三一から三九四二歌の左注は、「右件十二首歌者時々寄便使来贈非在一度所送也」<右の件(くだり)の十二首の歌は、時々に便使(べんし)に寄せて来贈(おこ)せたり。一度(ひとたび)に送るところにあらず>である。

 配所にいる中臣宅守と都の狭野弟上娘子との間の歌のやり取りは「便使」を仲介としていたのであろう。

 残念ながら「便使」は検索してもヒットせず、公的なものか私的なものか等は分からずじまいであった。調べてみたいものである。

 

 平群女郎の十二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その841)」で紹介している。

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 (参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典」

★「コトバンク 旺文社日本史事典 三訂版」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>」

★「レファレンス協同データベース」

★「なぶけんブログ」 (奈良文化財研究HP)

★「奈良市HP」