万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1397)―福井県越前市 万葉ロマンの道(16)―万葉集 巻十五 三七六六

●歌は、「愛しと思ひし思はば下紐に結ひつけ持ちてやまず偲はせ」である。

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福井県越前市 万葉ロマンの道(16)万葉歌碑(中臣宅守

●歌碑は、福井県越前市 万葉ロマンの道(16)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆宇流波之等 於毛比之於毛波婆 之多婢毛尓 由比都氣毛知弖 夜麻受之努波世

       (中臣宅守 巻十五 三七六六)

 

≪書き下し≫愛(うるは)しと思ひし思はば下紐(したびも)に結(ゆ)ひつけ持ちてやまず偲(しの)はせ

 

(訳)いとしいと思う、そう私のことを思って下さるならば、この鏡を下着の紐に結んで身に付け、絶えず偲んでおくれよね。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)したひも【下紐】名詞:腰から下に着用する裳(も)や袴(はかま)などの紐。 ⇒参考:『万葉集』では「したびも」。上代には、下紐が自然に解けるのは、相手から思われているか、恋人に会える前兆とする俗信があった。また、男女が共寝した後、互いに相手の下紐を結び合って、再び会うまで解かない約束をする習慣があった。(学研)

 

 

 「下紐に結ひつけ」とあるが、三七六五歌で宅守は娘子に「まそ鏡」を形見に贈っている。この鏡を身に付けるという意味である。

 三七六五歌は前稿、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1396)」で紹介している。

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 この鏡は紐のついた懐中鏡であると思われる。二四二四歌にも例がある。みてみよう。

 

◆紐鏡 能登香山 誰故 君来座在 紐不開寐

       (作者未詳 巻十一 二四二四)

 

≪書き下し≫紐鏡(ひもかがみ)能登香(のとか)の山の誰(た)がゆゑか君来ませるに紐解(と)かず寝(ね)む

 

(訳)紐鏡をな解き―解くな、という名を持つ能登香(のとか)の山のように、いったいどこのどなたに気がねして、せっかくあなたがいらっしゃったのに、紐も解かずに寝る、などということをするものですか。(同上)

(注)ひもかがみ【紐鏡】[1] 〘名〙: 紐のついた鏡。古代の青銅鏡などで、裏面に鋳出したつまみに紐のついたもの。あるいは小型のもので懐中したものか。

[2] 枕 :紐鏡の紐を解くな、の意で、「な解き」と類音の地名「能登香(のとか)」にかかる。(コトバンク 精選版日本国語大辞典

(注)能登香の山:所在未詳

(注)上二句は序。結句の「紐解かず」を起こす。(伊藤脚注)

 

 万葉集には「下紐を解く」という表現が出てくるが、この言葉だけでもいろいろと想像力が刺激されるのである。

 ここは冷静に、國學院大學デジタルミュージアムの「万葉神事語事典」で「下紐」に迫ってみよう。

 次の様に書かれている。

上代では『したびも』。下着の紐。表面からは見えない下裳(したも)や下袴(したばかま)などに付けてある紐。万葉集中で『紐』とのみ詠まれていても、『下紐』の場合が多く、下紐かただの紐かの区別が困難な歌もある。『二人して結びし紐をひとりして我は解き見じ直に逢ふまでは』(12-2919)のように男女が別れるときに互いにこれを結び合う習慣があった。また旅立ちに際し、旅先での無事を願う一種の呪的行為としても紐を結ぶ場合がある。恋人同士で特殊な結び方をして、そこに魂を祝い込めた。『人の見る上は結びて人の見ぬ下紐開けて恋ふる日そ多き』(12-2851)は、表の紐は普通の腰紐であり、裏紐が下紐である。相手と会えないときに、下紐を解いて恋慕うのだという。下紐を詠うことは、エロチックな要素を詠むこととなる。紐は『愛しと思へりけらしな忘れと結びし紐の解くらく思へば』(11-2558)と忘れないで欲しいという思いを込めて結ぶのであり、解ける行為は恋情の表れとなったのである。『我妹子し我を偲ふらし草枕旅の丸寝に下紐解けぬ』(12-3145)のように、恋人に強く思われると、紐が解けるという俗信もあった。ひとりでにこれが解けるのは、思う人に会う前兆、または人に恋い慕われている証拠だと信じられていた。そのため『高麗錦 紐解き開けて 夕だに 知らざる命 恋ひつつかあらむ』(11-2406)のように、恋人に会えるように自ら紐を解く場合もあった。紐が解けるということは、男女の出会いの表現となる。『忘れ草我が下紐に着けたれど醜の醜草言にしありけり』(4-727)や『愛しと思ひし思はば下紐に結い付け持ちて止まず偲はせ』(15-3766)のように、下紐にものを付けることにより相手との関係を強調させている。また『下紐の』は枕詞。同音でシタユコフ(下ゆ恋ふ)に接続する。『物思ふと人には見えじ下紐の下ゆ恋ふるに月そ経にける』(15-3708)。」

 

 この神事語事典をガイドに歌をみてみよう。

◆二為而 結之紐乎 一為而 吾者解不見 直相及者

     (作者未詳 巻十二 二九一九)

 

≪書き下し≫ふたりして結びし紐(ひも)をひとりして我(あ)れは解(と)きみじ直(ただ)に逢ふまでは

 

(訳)あの子と二人で結んだ着物の下紐、この紐を私は独りだけで解いたりはすまい。じかに逢えるまでは。(同上)

(注)結びし紐:男が旅などに出かける時に、互いに下紐を結び、再会の折に解く。(伊藤脚注)

(注)解く:一人で解くのは他人と関係することを意味する。(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1236)」で紹介している。

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◆人所見 表結 人不見 裏紐開 戀日太

       (作者未詳 巻十二 二八五一)

 

≪書き下し≫人の見る上(うへ)は結びて人の見ぬ下紐(したびも)開(あ)けて恋ふる日ぞ多き

 

(訳)人の目に触れる上着の紐はきちんと結んで、人の目に触れない下着の紐をあけては、恋い焦がれる日がいたずらに重なります。(同上)

(注)下紐開けて恋ふる:相手に逢える前兆を作り出して恋い焦がれている。(伊藤脚注)

 

 これについては、古橋信孝氏は、その著「古代の恋愛生活 万葉集の恋歌を読む」(NHKブックス)の中で、「旅立つときに、というより共寝の後、その女が下紐を結んで魂をこめたことと対応している。女は自分のもとへふたたび戻って来るようにと下紐を結ぶ。(中略)(その下紐を)自分の意志で解いて、相手を呼び寄せようとする・・・呪術である。下紐を解くのは・・・結んでいるのは閉じ籠められた状態だから、解くのはその隠りから開かれた状態になり、強い呪力を発揮するのだろう。」と書かれている。

 

 下紐が自然に解けることもある。この場合は、相手が強く思っていてくれるからと考えていたようである。

 

◆愛等 思篇来師 莫忘登 結之紐乃 解樂念者

       (作者未詳 巻十一 二五五八)

 

≪書き下し≫愛(うつく)しと思へりけらしな忘れと結びし紐(ひも)の解(と)くらく思へば

 

(訳)あの方は私のことをいとしいと思って下さっているらしい。「忘れるなよ」と言って結んで下さった紐がほどけるのを思うと。(同上)

(注)けらし 助動詞特殊型《接続》活用語の連用形に付く。:①〔過去の事柄の根拠に基づく推定〕…たらしい。…たようだ。②〔過去の詠嘆〕…たのだなあ。…たなあ。 ⇒参考:(1)過去の助動詞「けり」の連体形「ける」に推定の助動詞「らし」の付いた「けるらし」の変化した語。(2)②は近世の擬古文に見られる。(学研)

(注)とくらく【解くらく】(動詞「とく(解)」のク語法):解けること(広辞苑無料検索 日本国語大辞典

 

 

◆吾妹兒之 阿乎偲良志 草枕 旅之丸寐尓 下紐解

     (作者未詳 巻十二 三一四五)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)し我(あ)偲(しの)ふらし草枕(くさまくら)旅の麻呂寝に下紐(したびも)解(と)けぬ

 

(訳)いとしいあの子が私をしきりに偲んでいるらしい。草を枕の旅のごろ寝で、この着物の下紐がほどけてしまった。(同上)

(注)丸寝(まろね):衣服を着たまま寝ること。独り寝や旅寝をいうこともある。(学研)

 

 万葉の時代には、紐が自然に解けるのは相手が自分を思っているからだという魂の活動の予兆としての紐の俗言が生まれたそうである。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その7改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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下紐にものを付けることにより相手との関係を強調させている歌としては、歌碑の三七七六歌や家持の七二七歌がある。七二七歌をみてみよう。

 

◆萱草 吾下紐尓 著有跡 鬼乃志許草 事二思安利家理

      (大伴家持 巻四 七二七)

 

≪書き下し≫忘れ草我(わ)が下紐(したひも)に付けたれど醜(しこ)の醜草(しこくさ)言(こと)にしありけり

 

(訳)苦しみを忘れるための草、その草を着物の下紐にそっと付けて、忘れようとはしてみたが、とんでもないろくでなしの草だ、忘れ草とは名ばかりであった。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)わすれぐさ【忘れ草】名詞:草の名。かんぞう(萱草)の別名。身につけると心の憂さを忘れると考えられていたところから、恋の苦しみを忘れるため、下着の紐(ひも)に付けたり、また、垣根に植えたりした。歌でも恋に関連して詠まれることが多い。(学研)

(注)しこ【醜】名詞:頑強なもの。醜悪なもの。▽多く、憎みののしっていう。 ※参考「しこ女(め)」「しこ男(お)」「しこほととぎす」などのように直接体言に付いたり、「しこつ翁(おきな)」「しこの御楯(みたて)」などのように格助詞「つ」「の」を添えた形で体言を修飾するだけなので、接頭語にきわめて近い。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その905)」で紹介している。ここでは、大伴旅人の、明日香の里を忘れてしまうために下紐に忘れ草を付けた歌を紹介している。

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「下紐の」が枕詞として使われている歌三七〇八をみてみよう。

◆毛能毛布等 比等尓波美要緇 之多婢毛能 思多由故布流尓 都奇曽倍尓家流

       (阿倍継麻呂 巻十五 三七〇八)

 

≪書き下し≫物思(ものも)ふと人には見えじ下紐(したびも)の下(した)ゆ恋ふるに月ぞ経(へ)にける

 

(訳)物思いをしているとは人には知られないようにしたいものだ。しかしそれにしても、この下紐のように心の下で妻に恋い焦がれているうちに、ずいぶん月が経ってしまったな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)したひもの【下紐の】[枕]:《「したびもの」とも》「した」にかかる。(weblio

辞書 デジタル大辞泉

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代の恋愛生活 万葉集の恋歌を読む」 古橋信孝 著 (NHKブックス

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「広辞苑無料検索 日本国語大辞典

★「コトバンク 精選版日本国語大辞典

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタルミュージアムHP)