万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1401)―福井県越前市 万葉ロマンの道(20)―万葉集 巻十五 三七七〇

●歌は、「味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ」である。

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福井県越前市 万葉ロマンの道(20)万葉歌碑(狭野弟上娘子)

●歌碑は、福井県越前市 万葉ロマンの道(20)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治麻野尓 屋杼礼流君我 可反里許武 等伎能牟可倍乎 伊都等可麻多武

       (狭野弟上娘子 巻十五 三七七〇)

 

≪書き下し≫味真野(あぢまの)に宿れる君が帰り来(こ)む時の迎へをいつとか待たむ

 

(訳)味真野に旅寝をしているあなたが、都に帰っていらっしゃる時、その時のお迎えの喜びを、いつと思ってお待ちすれはよいのでしょうか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)やどる【宿る】自動詞①旅先で宿を取る。泊まる。宿泊する。②住みかとする。住む。③とどまる。④寄生する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

(注)やど【宿・屋戸】名詞:①家。家屋。②戸。戸口。入り口。③庭。庭先。前庭。④旅先の宿。▽一時的に泊まる家のことをさす。⑤主人。あるじ。(学研)

 

 「味真野に宿れる君」の響きは、やや時間のテンポが遅い感じがし、「いつとか待たむ」の焦ったような悲痛な叫びの感じとのギャップが、娘子の早く逢いたいという気持ちを浮き彫りにしている。

 

 時間的停滞感のある「宿る」や「宿」を詠んだ歌をみてみよう。

 

◆何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者

       (高市黒人 巻三 二七五)

 

≪書き下し≫いづくにか我(わ)が宿りせむ高島の勝野の原にこの日くれなば。

 

(訳)いったいどのあたりでわれらは宿をとることになるのだろうか。高島の勝野の原でこの一日が暮れてしまったならば。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 上二句で、「いづくにか我(わ)が宿りせむ」と、主観的に、不安を先立たせ、目の前の現実の土地「高島の勝野の原」に落とし込む。「この日くれなば」と状況を畳みかけているのである。夕暮れ迫る中、西近江路を急ぐ不安な気持ちが時を越えて伝わってくるのである。

 

 「宿る」までは、時間との闘いである。この場合は野宿であると思われるが、「宿」に落ち着いてしまえば、朝までは時間が停滞、まさに宿ってしまうのである。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その250)」で紹介している。

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◆足引之 山行暮 宿借者 妹立待而 宿将借鴨

       (作者未詳 巻七 一二四二)

 

≪書き下し≫あしひきの山行き暮(ぐ)らし宿借らば妹(いも)立ち待ちてやど貸さむかも

 

(訳)山道を辿りに辿って日が暮れて、宿を借ろうとしたならば、かわいい女子(おなご)が待っていて、宿を貸してくれるだろうか。ぜひそうあってほしいものだ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)妹:ここは旅先の女性をさす。(伊藤脚注)

 

旅先の楽しい出会いを想像して旅するのはいつの時代も同じなんだなあと思わず苦笑してしまう。

 

 

◆賣比能野能 須ゝ吉於之奈倍 布流由伎尓 夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊

       (高市黒人 巻十七 四〇一六)

 

≪書き下し≫婦負(めひ)の野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日(けふ)し悲しく思ほゆ

 

(訳)婦負(めひ)の野のすすきを押し靡かせて降り積もる雪、この雪の中で一夜の宿を借りる今日は、ひとしお悲しく思われる。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)婦負(めひ)の野:富山市から、その南にかけての野。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1096)」で紹介している。

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一二四二、四〇一六歌の「宿」は、旅先の宿(一時的に泊まる家のことをさす)を意味している。

 

 

◆吾屋外尓 蒔之瞿麦 何時毛 花尓咲奈武 名蘇経乍見武

      (大伴家持 巻八 一四四八)

 

≪書き下し≫我がやどに蒔(ま)きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む

 

(訳)我が家の庭に蒔いたなでしこ、このなでしこはいつになったら花として咲き出るのであろうか。咲き出たならいつもあなただと思って眺めように。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いつしかも【何時しかも】分類連語:〔下に願望の表現を伴って〕早く(…したい)。今すぐにも(…したい)。 ⇒ なりたち副詞「いつしか」+係助詞「も」(学研)

(注)なそふ【準ふ・擬ふ】他動詞:なぞらえる。他の物に見立てる。 ※後には「なぞふ」とも。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1027)」で紹介している。

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◆秋去者 見乍思跡 妹之殖之 屋前乃石竹 開家流香聞

      (大伴家持 巻三 四六四)

 

≪書き下し≫秋さらば見つつ偲へと妹(いも)が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも

 

(訳)「秋になったら、花を見ながらいつもいつも私を偲(しの)んで下さいね」と、いとしい人が植えた庭のなでしこ、そのなでしこの花はもう咲き始めてしまった。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)咲きにけるかも:早くも夏のうちに咲いたことを述べ、秋の悲しみが一層増すことを予感している。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1051)」で紹介している。

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 一四四八、四六四歌ともに「やど」は「家の庭」を指している。「屋外」「屋前」は書き手の遊び心であろうか。

 

 

◆君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹

      (額田王 巻四 四八八)

 

≪書き下し≫君待つと我(あ)が恋ひ居(を)れば我(わ)がやどの簾(すだれ)動かし秋の風吹く

 

(訳)あの方のおいでを待って恋い焦がれていると、折しも家の戸口のすだれをさやさやと動かして秋の風が吹く。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その239改)」で紹介している。

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 この歌の「屋戸(やど)」は「戸。戸口。入り口」を意味している。

 

 三七七〇、一二四二歌の「宿」は旅寝する建屋が存在しており、そこを借りて(中臣宅守の場合は配所先)の「宿」である。二七五歌は野宿であると思われるが、仮の住いを建てて泊まる「廬を結ぶ」という歌もある。

 

◆木綿疊 手向乃山乎 今日越而 何野邊尓 廬将為吾等

       (大伴坂上郎女 巻六 一〇一七)

 

≪書き下し≫木綿畳(ゆふたたみ)手向(たむ)けの山を今日(けふ)越えていづれの野辺(のへ)に廬(いほ)りせむ我(わ)れ

 

(訳)木綿畳(ゆうたたみ)を手向ける、その手向け山の逢坂(おうさか)の山、この山を越えて行って、いったいどこの野辺で廬(いおり)を結ぼうというのか、われらは。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆふたたみ【木綿畳】名詞:「木綿(ゆふ)」を折り畳むこと。また、その畳んだもの。神事に用いる。「ゆふだたみ」とも。

(注)ゆふたたみ【木綿畳】分類枕詞:「木綿畳」を神に手向けることから「たむけ」「たな」に、また、「た」の音を含む地名「田上(たなかみ)」にかかる。「ゆふたたみ手向けの山」「ゆふたたみ田上山」(学研)

(注)たむけやま【手向山】名詞:「手向けの神」が祭られている山。奈良山・逢坂山(おうさかやま)が有名。手向けの山。(学研)

(注)いほり【庵・廬】名詞:①仮小屋。▽農作業のために、草木などで造った。②草庵(そうあん)。▽僧や世捨て人の仮ずまい。自分の家をへりくだってもいう。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1393)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」