●歌は、「背の山に直に向へる妹の山事許せやも打橋渡す」である。
●歌をみていこう。
◆勢能山尓 直向 妹之山 事聴屋毛 打橋渡
(作者未詳 巻七 一一九三)
≪書き下し≫背(せ)の山(やま)に直(ただ)に向(むか)へる妹(いも)の山(やま)事許(ゆる)せやも打橋(うちはし)渡す
(訳)背の山にじかに向かい合っている妹の山、この山は、背の山の申し出を許したのであろうか。間を隔てる川に打橋が渡してある。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)打橋渡す:背の山と妹山の中間にある紀ノ川の川中島(船岡山)」をいう。(伊藤脚注)
(注の注)うちはし【打ち橋】名詞:①板を架け渡しただけの仮の橋。②建物と建物との間の渡り廊下の一部に、取り外しができるように架け渡した板。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意
「『妹』と『背』ならびに『妹背山』」について、國學院大學デジタルミュージアムHPの「万葉神事語事典」に詳しく書かれているのでみてみよう。
「恋人や夫婦の間で、相手に親しみを込めて呼ぶ称。男から女には『妹』、女から男には『背』を用いる。ただし、『背』に関しては、単独で用いた例はなく、『わたしの』の意を冠して親愛の情を加えた『我が背(子)』の例が大半を占める。具体的には、『背』33例のうち29例が『我が背』の、『背子』の場合は117例すべてが『我が背子』の形をとる。『我が背(子)』やそれと対の『我妹(わぎも)』の呼称は、異性間のみならず、男同士・女同士の贈答歌にも見られる。かかる用法は、呼称としての『背』や『妹』が、配偶者としての女の立場を絶対的に示す現代語の『夫』や『妻』の如きものではなく、相手に対する話者の親愛感情を反映して用いられる呼称であることを示している。ただし、夫婦や恋人を指す妹・背の用法は、歌謡や和歌に限って見られるものであって、記では、イザナキが黄泉国で出迎えたイザナミに『愛しき我がなに妹の命』(神代記)と呼びかけた例があるものの、散文体の文章においては、例えば、邇芸速日命が登美夜毘売を娶るくだりで、登美夜毘売が『登美毘古が妹』(神武記)と記されるように、兄弟としての妹の立場を表す例ばかりである(ただし、イザナミに関する記述には『妹』で妻の立場を表す例が見られる)。上記の如く、和歌における『背』は、そのほとんどが夫や恋人の意を示すのであるが、兄弟の立場を表す例も2例確認できる。1つは、万葉集巻6の市原王の歌で、ものを言わない木にさえ妹と背があるというのに、と木を引き合いに自分が独り子であることを嘆いたものであり(6-1007)、もう1つは、巻17の大伴家持の歌で、男の子どもも女の子どもも兄弟姉妹は皆(『妹も背も』)泣き騒いでいるだろうと詠ったものである(17-3962)。用例数は少ないが、これが本来の用法であったとも見得る。万葉集には他に、和歌山県伊都郡を流れる紀ノ川を挟んで並ぶ「妹背(いもせ)の山」を詠んだ歌が見える。もともと両岸が接するゆえ『狭山(せやま)』と呼ばれていた山の名称が『背山(せやま)』と解されるに及んで、伴侶を求めて対岸を『妹山(いもやま)』と称するようになった(『万葉ことば事典』大和書房)という。
「もともと両岸が接するゆえ『狭山(せやま)』と呼ばれていた山の名称が『背山(せやま)』と解されるに及んで、伴侶を求めて対岸を『妹山(いもやま)』と称するようになった」という記述や、脚注の「背の山と妹山の中間にある紀ノ川の川中島(船岡山)」打橋に喩えたという記述は、現地を見て初めて合点がいったのである。
まさに「背の山」と「妹山」の仲をとりもつ「中の島」である。
「万葉神事語事典」に書かれていた歌をみてみよう。
題詞は、「市原王悲獨子歌一首」<市原王、独(ひと)り子にあることを悲しぶる歌一首>である。
◆言不問 木尚妹與兄 有云乎 直獨子尓 有之苦者
(市原王 巻六 一〇〇七)
≪書き下し≫言(こと)とはぬ木すら妹(いも)と兄(せ)とありといふをただ独り子にあるが苦しさ
(訳)物言わぬ非情の木にさえ、妹と兄があるというのに、私は、ただ一人子であるのがつらい。(同上)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1195)」で紹介している。
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家持の歌をみてみよう。
◆・・・都麻能美許登母 安氣久礼婆 門尓餘里多知 己呂母泥乎 遠理加敝之都追 由布佐礼婆 登許宇知波良比 奴婆多麻能 黒髪之吉氐 伊都之加登 奈氣可須良牟曽 伊母毛勢母 和可伎兒等毛波 乎知許知尓 佐和吉奈久良牟・・・
(大伴家持 巻十七 三九六二)
≪書き下し≫・・・妻の命(みこと)も 明けくれば 門(かど)に寄り立ち 衣手(ころもで)を 折り返しつつ 夕されば 床(とこ)打ち払(はら)ひ ぬばたまの 黒髪敷きて いつしかと 嘆かすらむぞ 妹(いも)も兄(せ)も 若き子どもは をちこちに 騒(さわ)き泣くらむ・・・
(訳)・・・いとしくてならない大事な妻も、夜が明けてくると門に寄り添って立ち、夕ともなると袖を折り返しては床を払い清めて、独りさびしく黒髪を靡かせて伏し、早く帰って来てほしいと嘆いてくれていることであろう。女の子も男の子も幼い子どもたちは、あっちこっちで騒いだり泣いたりしていることであろう・・・(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1348表②)で紹介している。
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京奈和自動車道「紀の川南IC」を下り、少し引き返す感じで、県道127号線に入る。紀ノ川の「麻生津(おおづ)大橋」を渡り、県道13号線を左折、厳島神社への参道吊り橋の手前の駐車場(無料)に車を停める。
そこから歩いて吊り橋(厳島橋)を渡り厳島神社に向かう。神社に向かう右手に歌碑が、さらにその右側の堤防護岸壁に大きく一二〇九歌が刻されているのが見える。
事前準備では、一二〇九歌の場所が特定できずにいたので不安であったが、吊り橋を渡れば目に飛び込んでくるので詳しく書かれていなかったのであろう。堤防護岸壁の大きな歌碑パネルの発想に驚かされた。
順調な滑り出しであった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」