●歌は、「引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌」<二年壬寅(みずのえとら)に、太上天皇(おほきすめらみこと)、三河の国に幸(いでま)す時の歌>である。
(注)大宝二年:702年
◆引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓
(長忌寸意吉麻呂 巻一 五七)
≪書き下し≫引馬野(ひくまの)ににほふ榛原(はりはら)入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
(訳)引馬野(ひくまの)に色づきわたる榛(はり)の原、この中にみんな入り乱れて衣を染めなさい。旅の記念(しるし)に。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)引馬野(ひくまの):愛知県豊川市(とよかわし)御津(みと)町の一地区。『万葉集』に「引馬野ににほふ榛原(はりばら)入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに」と歌われた引馬野は、豊川市御津町御馬(おんま)一帯で、古代は三河国国府(こくふ)の外港、近世は三河五箇所湊(ごかしょみなと)の一つだった。音羽(おとわ)川河口の低湿地に位置し、引馬神社がある。(コトバンク 日本大百科全書<ニッポニカ>)
(注)はり【榛】名詞:はんの木。実と樹皮が染料になる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)にほふ【匂ふ】:自動詞 ①美しく咲いている。美しく映える。②美しく染まる。(草木などの色に)染まる。③快く香る。香が漂う。④美しさがあふれている。美しさが輝いている。⑤恩を受ける。おかげをこうむる。
他動詞:①香りを漂わせる。香らせる。②染める。色づける。(学研)
左注は、「右一首長忌寸奥麻呂」<右の一首は長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)>である。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その987)」で紹介している。
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万葉集には、この持統天皇の三河行幸に関連して五七から六一歌が収録されている。五七歌の脚注で、伊藤博氏は「五七~五八は行幸先の宴歌、五九~六一は行幸後の宴歌」と書かれている。
五七から六一歌をみてみよう。
◆何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
(高市黒人 巻一 五八)
≪書き下し≫いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟
(訳)今頃、どこに舟泊(ふなど)まりしているのであろうか。さっき安礼の﨑を漕ぎめぐって行った、あの横板もない小さな舟は。(同上)
(注)あれのさき【安礼崎】:愛知県南部、御津(みと)町の渥美湾に突き出ていた崎。下佐脇新田(しもさわきしんでん)の西端にあったとみられる。(広辞苑無料検索 日本国語大辞典)
(注)たななしをぶね【棚無し小舟】名詞:船棚がない小さな舟。(学研)
左注は、「右一首高市連黒人」<右の一首は高市連黒人(たけちのむらじくろひと)>である。
続いて、題詞は、「譽謝女王作歌」<誉謝女王(よぎのおほきみ)が作る歌>である。
◆流經 妻吹風之 寒夜尓 吾勢能君者 獨香宿良武
(誉謝女王 巻一 五九)
≪書き下し≫流らふるつま吹く風の寒き夜に我(わ)が背(せ)の君はひとりか寝(ね)らむ
(訳)絶え間なく横なぐりに吹きつける風の寒い今宵(こよい)、いとしいあの方は、ひとりさびしく寝ていることであろうか。(同上)
(注)ながらふ 自動詞【流らふ】:流れ続ける。静かに降り続ける。◇上代語。(学研)
(注の注)流らふるつま吹く風:絶え間なく家の切妻に吹きつける風。「つま」には妻の意がこもる。(伊藤脚注)
題詞は、「長皇子御歌」
◆暮相而 朝面無美 隠尓加 氣長妹之 廬利為里計武
(長皇子 巻一 六〇)
≪書き下し≫宵(よひ)に逢ひて朝(あした)面(おも)なみ名張(なばり)にか日(け)長く妹(いも)が廬(いほ)りせりけむ
(訳)宵に共寝をして、翌朝面と向かえず隠(なば)るという、その名張で、何日も何日も、あの子は忌(い)み隠(ごも)りしていたのだな。(同上)
(注)上二句は序。「名張」を起こす。合わせる顔がなく「なばる」の意。(伊藤脚注)
(注)なばり【隠】:(動詞「なばる(隠)」の名詞化)隠れること。伊賀国(三重県)名張の地名にかけて用いられることが多い。(広辞苑無料検索 日本国語辞典)
題詞は、「舎人娘子従駕作歌」<舎人娘子(とねりのをとめ)、従駕(おほみとも)にして作る歌>である。
(注)じゅうが【従駕】:天子の行幸に随行すること。また、高位高官の人の車駕に随行すること。 伊藤氏は「おほみとも」と読まれている。
◆大夫之 得物矢手挿 立向 射流圓方波 見尓清潔之
(舎人娘子 巻一 六一)
≪書き下し≫ますらをのさつ矢手挟(てばさ)み立ち向ひ射る円方(まとかた)は見るにさやけし
(訳)ますらおが、さつ矢を手挟んで、立ち向かいさかんに射貫(いぬ)く的(まと)、その名の円方(まとかた)の浜は、見るからにすがすがしい。(同上)
(注)さつや 【猟矢】名詞:獲物を得るための矢。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その426)」で紹介している。
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歌碑の近くに知立市教育委員会による「知立松並木」の説明案内板が建てられている。
それによると、この松並木は、慶長九年(1604年)江戸幕府の命により設置されたという。「側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。」と書かれている。
さらに、この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝二年(702年)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌(長忌寸意吉麻呂の五七歌)から当地が天皇行幸の地と推定されている、旨が書かれている。
歌碑は、「馬市跡」の碑と並べて建てられている。
4月11、12日に愛知県知立市、安城市、蒲郡市他ならびに静岡県浜松市万葉歌碑巡りを行なった。主な行程は下記の通りである。
■4月11日
知立市山町 旧東海道松並木➡豊田市上渡刈町 糟目春日大社➡新幹線三河安城駅北側舗装➡西尾市上羽角町 最明寺➡額田郡幸田町 萩稲荷神社➡幡豆郡吉良町 幡頭神社➡蒲郡市西浦町 万葉の小径
■4月12日
浜松市北区三ケ日町 乎那の峯(浅間山)➡浜北区平口 万葉の森公園➡浜北区貴布祢 浜北文化センター➡浜北区宮口 八幡神社(旧若倭神社)➡浜北区宮口 麁玉公民館➡北区細江町気賀 細江公園➡北区細江町気賀 小森橋南
行程と歌碑については順次紹介してまいります。
目的地周辺に到着、旧東海道の松並木も確認できている。 しかし松並木を横目に走りながらも接近がままならない。ほぼUターンするような形で松並木に入って行くのであるが、3度目でうまくアクセスでき、歌碑も見つけることが出来たのである。思わぬ形で時間を食ってしまった。
側道部に馬を繋ぐように車を停め、歌碑の撮影に臨んだのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「広辞苑無料検索 日本国語辞典」