万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1443,1444)―愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P11、P12)―万葉集 巻二十 四二九七、巻五 八二二

―その1443―

●歌は、「をみなへし秋萩しのぎを鹿の露別け鳴かむ高円の野ぞ」である。

愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P11)万葉歌碑<プレート>(大伴家持



●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P11)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 四二九五から四二九七歌の題詞は、「天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提壷酒 登高圓野聊述所心作歌三首」<天平勝宝五年の八月の十二日に、二三(ふたりみたり)の大夫等(まへつきみたち)、おのもおのも壺酒(こしゅ)を提(と)りて高円(たかまと)の野(の)に登り、いささかに所心(おもひ)を述べて作る歌三首>である。

 

◆乎美奈弊之 安伎波疑之努藝 左乎之可能 都由和氣奈加牟 多加麻刀能野曽

      (大伴家持 巻二十 四二九七)

 

≪書き下し≫をみなへし秋萩しのぎさを鹿(しか)の露別(わ)け鳴かむ高円の野ぞ

 

(訳)おみなえしや秋萩を踏みしだき、雄鹿がしとどに置く露を押し分け押し分け、やがて鳴き立てることであろう、この高円の野は。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌ならびに「をみなえし」を詠んだ歌十四首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1178)」で紹介している。

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四二七五、四二七六歌をみてみよう。

 

◆多可麻刀能 乎婆奈布伎故酒 秋風尓 比毛等伎安氣奈 多太奈良受等母

       (大伴池主 巻二十 四二九五)

 

≪書き下し≫高円の尾花(をばな)吹き越す秋風に紐(ひも)解き開けな直ならずとも

 

(訳)高円の野のすすきの穂を靡かせて吹きわたる秋風、その秋風に、さあ着物の紐を解き放ってくつろごうではありませんか。いい人にじかに逢(あ)うのではなくても。(同上)

(注)直ならずとも:直接恋人にあうのではなくても。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首左京少進大伴宿祢池主」<右の一首は左京少進(さきやうのせうしん)大伴宿禰池主

(注)左京少進:左京職の三等官。正七位上相当。七月頃、越前から帰任していたらしい。この宴は池主歓迎を兼ねているのか。(伊藤脚注)

 

 

◆安麻久母尓 可里曽奈久奈流 多加麻刀能 波疑乃之多婆波 毛美知安倍牟可聞

       (中臣清麻呂 巻二十 四二九六)

 

≪書き下し≫天雲(あまくも)に雁(かり)ぞ鳴くなる高円の萩(はぎ)の下葉(したば)はもみちあへむかも

 

(訳)天雲の彼方にもう雁が来て鳴いている。ここ高円の萩の下葉は色付きおおせることであろうか。(同上)

(注)もみちあへむ:雁の声に感じて萩が色づくとみた。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首左中辨中臣清麻呂朝臣」<右の一首は左中弁(さちゆべん)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろのあそみ)>である。

(注)左中弁:太政官所属の左弁官局の次官。この時は尾張守で、翌年に左中弁。

 

 清麻呂について、藤井一二氏は、その著「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」(中公新書)のなかで、「清麻呂は、天平宝字六年(762)一二月に参議となって以後、中納言。大納言をへて宝亀二年(771)から天応元(宝亀一二)年まで、右大臣として政務を担当した。清麻呂が右大臣であった宝亀一一年(780)二月、家持は参議に加わった。翌年六月に清麻呂は致仕(ちし<引退>)する。晩年の大伴家持が政界中枢へ昇進できた背景には中臣清麻呂の存在が大きかったと思われる。中臣清麻呂は長きにわたる交遊を通じて家持をよく知る公卿であった。」と書かれている。

 

 

―その1444―

●歌は、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」である。

愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P12)万葉歌碑<プレート>(大伴旅人



●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P12)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 [主人]           (大伴旅人 巻五 八二二)

 

≪書き下し≫我(わ)が園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも  主人

 

(訳)この我らの園に梅の花がしきりに散る。遥かな天空から雪が流れて来るのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも:梅花を雪に見立てている。六朝以来の漢詩に多い。(伊藤脚注)

(注)主人:宴のあるじ。大伴旅人。(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに父である大伴安麻呂の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その900)」で紹介している。

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 大伴旅人の文学について、大久保廣行氏は、「大伴旅人―人と作品」(中西 進/編 祥伝社新書)の中で、「旅人は、六十七歳の生涯の中で七十二首の和歌を残したが、・・・そのほとんどが大宰帥として筑紫に在った折の作であって、その前後は帥以前の在京のもの二首(巻三、三一五・三一六)、大納言となって帰京以後のもの七首(巻三、四五一-四五三 巻四、五七四・五七五 巻六、九六九・九七〇)を数えるにすぎない。・・・現存する歌では・・・初作の二首でさえ六十歳の時のもので、あとは六十四歳以降の三年間に集中する。この偏在性は旅人の文学を顕著に特徴づけている・・・」と書かれ、その要因として三点を挙げておられる。「・・・第一は老身であるがために予期しなかった人生体験にいくつも遭遇したことであり、第二は文芸の創作と享受を共にすることができる歌友や集団が身辺に存在したことであり、第三は筑紫という鄙(ひな)の地に在(あ)らねばならないことであった。」とされ「旅人にとって歌とは何であったのかを」まとめられている。

 第一点に関して「大宰府に着任早々、神亀五年(728)四月には最愛の伴侶大伴郎女に急逝され、六月には都の近親者・・・の訃報、翌年二月には期待と信頼を寄せていた長屋王の悲劇的な事件、・・・天平二年(730)六月に自らも・・・生死の境をさまよい・・・わずか二年の間に立て続けに押し寄せた怒涛のような深刻な事態は・・・これまでの人生観を覆すような、運命の重大事であった・・・死という人生の究極的課題から旅人の歌の出発と展開があった・・・死という冷厳な事実が旅人に人生への省察を深め、歌という表現手段を用いて自己表出へと向かわせたのある。」

「旅人は、人生の不条理を哀しみ、徹底して自己に引き付けてわが情(こころ)を詠いあげた。」

「亡妻悲傷歌」は。「亡妻のための挽歌であるよりは、旅人自身の悲傷歌なのである。」と書かれている。

 

「亡妻悲傷歌」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その895)」で紹介している。

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 帥以前の在京のもの二首(巻三、三一五・三一六)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その974)で紹介している。

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 第二の点としては、山上憶良、沙弥満誓、大弐紀卿などの都から下向した知識人をあげておられる。

 山上憶良との接点についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その902)」でも触れている。

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 沙弥満誓についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その916)」でも触れている。

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 大弐紀卿の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その923)」で紹介している。

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 第三の点として「筑紫という辺境」に加え第一の「死」との関わりから、「常に彼の心を京<奈良・吉野・飛鳥>へと向かわせ・・・みやびなるものを追及することによって、その心を満たそうとしたのであった。」と書かれている。

 

 望郷の歌ならびに、武人としての本音(旅人自身としては建前であったかもしれない)の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その921)」で紹介している。

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 藤原氏との軋轢の中で、筑紫にある意味追いやられ、そこで「死」と直面し、空間的・時間的「現実」からの逃避を余儀なくされるも、武人たる精神力が土台として旅人を支え、歌友の存在により文人として開花していった波乱の人生であったといえよう。その子家持も越中という鄙で文才をより開花させ波乱に満ちた苛酷な道のりは共通点があるようである。

 対藤原氏という構図の中で形成された万葉集、読めば読むほどに深みに引きずり込まれていく。楽しい魔物である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「大伴旅人―人と作品」 大久保廣行 稿 (中西 進/編 祥伝社新書)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」