万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1445,1446)ー愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P13、P14)―万葉集 巻二十 四四五六、巻二十 四四七六

―その1445―

●歌は、「ますらをと思へるものを大刀佩きて可爾波の田居に芹ぞ摘みける」である。

愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P13)万葉歌碑<プレート>(薩妙觀命婦

●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P13)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「薩妙觀命婦報贈歌一首」<薩妙觀命婦が報(こた)へ贈る歌一首>である。

 

◆麻須良乎等 於毛敝流母能乎 多知波吉弖 可尓波乃多為尓 世理曽都美家流

       (薩妙観命婦 巻二十 四四五六)

 

≪書き下し≫ますらをと思へるものを大刀(たち)佩(は)きて可爾波(かには)の田居(たゐ)に芹ぞ摘みける

 

(訳)立派なお役人と思い込んでおりましたのに、何とまあ、太刀を腰に佩いたまま、蟹のように這いつくばって、可爾波(かには)の田んぼで芹なんぞをお摘みになっていたとは。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ますらを【益荒男・丈夫】名詞:心身ともに人並みすぐれた強い男子。りっぱな男子。[反対語] 手弱女(たわやめ)・(たをやめ)。 ⇒ 参考 上代では、武人や役人をさして用いることが多い。後には、単に「男」の意で用いる。(学研)

(注)可爾波(かには):京都府木津川市山城町綺田の地。「可爾」に「蟹」を懸け、這いつくばっての意を込めるか。(伊藤脚注)

(注)芹ぞ摘みける:芹なんぞお摘みになったとは。感謝の気持ちを諧謔に託している。(伊藤脚注)

 

四四五五歌の題詞は、「天平元年班田之時使葛城王従山背國贈薩妙觀命婦等所歌一首 副芹子褁」<天平元年の班田(はんでん)の時に、使(つかひ)の葛城王(かづらきのおほきみ)、山背の国より薩妙観命婦等(せちめうくわんみやうぶら)の所に贈る歌一首 芹子(せり)の褁に副ふ>である。

葛城王橘諸兄)の四四五五歌「あかねさす昼は田(た)賜(た)びてぬばたまの夜のいとまに摘(つ)める芹子(せり)これ」<(訳)日の照る昼には田を班(わか)ち与えるのに手を取られ、暗い夜の暇を盗んで摘んだ芹ですぞ、これは。(同上)>に和(こた)えた歌である。

 

左注は、「右二首左大臣讀之云尓 左大臣葛城王 後賜橘姓也」<右二首は、左大臣読みてしか云ふ 左大臣はこれ葛城王にして、 後に橘の姓を賜はる>である。

 

 「ますらをと思へる」とは、「ますらをたるものが・・・」という、すなわち「立派なお役人ともあろうお方が・・・」と期待されるイメージとのギャップを言外に漂わせているのである。そして「太刀を腰に佩いたまま、蟹のように這いつくばって、可爾波(かには)の田んぼで芹なんぞをお摘みになっていたとは。」とウイットに富んだ言い回しで報(こた)えているのである。太刀を腰に佩いたまま、蟹のように這いつくばって芹を摘んでいる情景が目に浮かぶ。しかも葛城王橘諸兄)である。

この掛け合いは何度読んでも吹き出してしまう。せっかく芹を贈ったのに、完全に一本取られたのである。

万葉集の編者も笑いをこらえながら収録したのであろう。

 

 この歌ならびに「ますらをと思へる」というギャップの響きを持つ歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1213)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1446―

●歌は、「奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ」である。

愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径    (P14)万葉歌碑<プレート>(大原真人今城)

●歌碑は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径    (P14)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆於久夜麻能 之伎美我波奈能 奈能其等也 之久之久伎美尓 故非和多利奈無

        (大原真人今城 巻二十 四四七六)

 

≪書き下し≫奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ 

 

(訳)奥山に咲くしきみの花のその名のように、次から次へとしきりに我が君のお顔が見たいと思いつづけることでしょう、私は。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)しきみ【樒】名詞:木の名。全体に香気があり、葉のついた枝を仏前に供える。また、葉や樹皮から抹香(まつこう)を作る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(学研)

 

この歌の題詞によると、天平勝宝八年(756年)十一月二十三日に、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)をしているのである。この集いに誰が参加したのかは不明である。家持が「族(やから)を喩す歌」(四四六五歌)を詠んだのが同年六月一七日であるから、藤原氏一族との対峙の緊張感はピークに達している頃である。この時期、宴にあって反仲麻呂の話題が出ないはずはない。しかし、家持の歌どころか池主の歌も収録されていないのである。ただ大原真人今城の歌二首のみである。

 しかも家持の幼馴染で、歌のやり取りも頻繁に行い万葉集にも数多く収録されている大伴池主の名前はこれ以降万葉集から消える。

さらに池主は奈良麻呂の変に連座し歴史からも名を消したのである。

 

 家持が越中に赴任して初めて迎えた新年に体調を崩し池主と書簡や歌のやり取り(三九六二から三九七七歌)をしたことは家持にとってどんなに心の支えになったことであろうか。

 越中三賦に対しても真摯な態度で家持に和していた池主。越中時代の歌の交流ぶり。池主が越前国の掾に転じてからの歌のやり取り(四〇七三から四〇七九歌他)、家持が越前国の池主の宅を訪れた時、正税帳使として任を終え帰路にあった久米広綱との「適遇」し共に飲楽した折りの歌(四二五二、四二五三歌)などをみているとなんともやりきれない気持ちに襲われる。

 

 

四四七六歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1078)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 三九六八歌(三月二日の池主)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1317)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 四二五二、四二五三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1372)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 歴史のとてつもない大きな渦の中で翻弄される家持と池主の強い絆も万葉集の中で読み解けるのである。

 万葉集って、なんて世界なのだ・

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」