万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1449)―愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P17、P18)―万葉集 巻二十 四四九三、巻二 一八五

―その1449―

●歌は、「初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒」である。

愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P17)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P17)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「二年春正月三日召侍従竪子王臣等令侍於内裏之東屋垣下即賜玉箒肆宴 于時内相藤原朝臣奉勅宣 諸王卿等随堪任意作歌并賦詩 仍應 詔旨各陳心緒作歌賦詩  未得諸人之賦詩并作歌也」<二年の春の正月の三日に、侍従、豎子(じゆし)、王臣等(ら)を召し、内裏(うち)の東(ひがし)の屋(や)の垣下(かきもと)に侍(さもら)はしめ、すなわち玉箒(たまばはき)を賜ひて肆宴(しえん)したまふ。時に、内相藤原朝臣、勅(みことのり)を奉じ宣(の)りたまはく、「諸王(しよわう)卿(きやう)等(ら)、堪(かん)のまにま意のまにまに歌を作り、并(あは)せて詩を賦(ふ)せ」とのりたまふ。よりて詔旨(みことのり)に応え、おのもおのも心緒(おもひ)を陳(の)べ、歌を作り詩を賦(ふ)す。  いまだ諸人の賦したる詩、并せて作れる歌を得ず>

(注)二年:天平宝字二年(758年)

(注)じじゅう【侍従】名詞:天皇に近侍し、補佐および雑務に奉仕する官。「中務省(なかつかさしやう)」に所属し、定員八名。そのうち三名は少納言の兼任。のちには数が増える。中国風に「拾遺(しふゐ)」ともいう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)じゅし【豎子・孺子】①未熟者。青二才。②子供。わらべ。:未冠の少年で宮廷に奉仕する者。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)かきもと【垣下】名詞:宮中や公卿(くぎよう)の家で催される饗宴(きようえん)で、正客の相手として、ともにもてなしを受ける人。また、その人の座る席。相伴(しようばん)をする人。「かいもと」とも。(学研)

(注)たまばはき【玉箒】名詞:①ほうきにする木・草。今の高野箒(こうやぼうき)とも、箒草(ほうきぐさ)ともいう。②正月の初子(はつね)の日に、蚕室(さんしつ)を掃くのに用いた、玉を飾った儀礼用のほうき。(学研)

(注)まにま【随・随意】名詞:他の人の意志や、物事の成り行きに従うこと。まま。※形式名詞と考えられる。連体修飾語を受けて副詞的に用いられる。(学研)

 

◆始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎

      (大伴家持 巻二十 四四九三)

 

≪書き下し≫初春(はつはる)の初子(はつね)の今日(けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺(ゆ)らぐ玉の緒

 

(訳)春先駆けての、この初春の初子の今日の玉箒、ああ手に取るやいなやゆらゆらと音をたてる、この玉の緒よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首右中辨大伴宿祢家持作 但依大蔵政不堪奏之也」<右の一首は、右中弁大伴宿禰家持作る。ただし、大蔵の政(めつりごと)によりて、奏し堪(あ)へず>

 

 天平宝字二年(758年)の歌である。

 天平勝宝九年(757年)七月四日、橘奈良麻呂の変。八月十八日、天平宝字改元

 題詞に、「時に、内相藤原朝臣、勅(みことのり)を奉じ宣(の)りたまはく」とあるように、藤原仲麻呂が権力を牛耳っていることがうかがえる。

 天平宝字元年(757年)十一月十八日、藤原仲麻呂の権勢をほしいままにした「いざ子どもたはわざなせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は(四四八七歌)」の歌が収録されている。

 

 四四八七歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1011)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 橘奈良麻呂の変以降、歴史のうねりと共に、万葉集も一気に終焉に向かっていくのである。四四九三歌ならびに終焉に向かう途上の家持の歌のついてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1086)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1450―

●歌は、「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」である。

愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P18)万葉歌碑<プレート>(日並皇子尊宮舎人)

●歌碑(プレート)は、愛知県蒲郡市西浦町 万葉の小径(P18)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 

◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨

      (日並皇子尊宮舎人 巻二 一八五)

 

≪書き下し≫水(みづ)伝(つた)ふ礒(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂(も)く咲く道をまたも見むかも

 

(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いそ【磯】名詞:①岩。石。②(海・湖・池・川の)水辺の岩石。岩石の多い水辺。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うらみ【浦廻・浦回】名詞:入り江。海岸の曲がりくねって入り組んだ所。「うらわ」とも。(学研)

(注)茂く>もし【茂し】( 形ク ):草木の多く茂るさま。しげし。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版)

 

 この歌を含め一七一から一九三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その502)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 一七一~一九三歌の歌群の題詞は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」<皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二三首>とある。

 

 神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)の中で、「慟傷(かな)しびて」の言葉に注目されて次の様に巻一、二から題詞を抽出されている。

  • 麻績王、伊勢国の伊良虞の嶋に流された時に、人の哀傷して作る歌(巻一・二三歌)
  • 麻績王、これを聞き感傷して和ふる歌(巻一・二四歌)
  • 高市古人、近江の旧き堵を感傷して作る歌(巻一・三二~三三歌)
  • 有間皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首(巻二・一四一~一四二歌)
  • 長忌寸意吉麻呂、結び松を見て哀咽する歌二首(巻二・一四三~一四四歌
  • 大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大来皇女の哀傷して作らす歌二首(巻二.一六五~一六六歌)
  • 皇子尊の宮の舎人等が慟傷して作る歌廿三首(巻二・一七一~一九三歌)
  • 但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日雪の落るに、御墓を遥かに望み、悲傷流涕して作らす歌一首(巻二・二〇三歌)
  • 柿本朝臣人麻呂、妻が死にし後に、泣血哀慟して作る歌二首、幷せて短歌(巻二・二〇七~二一二歌)

10.柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首(巻二・二二三歌)

 さらに左注にも触れられ、

11.・・・所以(このゆゑ)に因りて歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷したまふ・・・(巻一・八歌)

12.・・・路の上に花を見て、感傷哀咽して此の歌を作れるか。(巻二・一六六歌)

 

 そして、「これらは、『傷』『哀』『悲』に集中します。『感傷』『悲傷』『哀傷』などと熟する場合もありますが、すべて悲しみをいうものです。4~10は挽歌であって、悲しみが主になるのは当然といえるかもしれません。ただ、挽歌であっても、このように直接心情や感情を示す題詞は普通ではありません。・・・これらには、歌自体において『かなし』と表現するのとはちがう意味があります。つまり、主題が悲しみの感情であることを外形的に明示するのです。」と書かれている。

 「歌自体によるのみでなく、感情を外形的に明示して世界構築をになうものであり、つまり、感情まで組織して世界を構築するものとしてあるのです。」

 「麻績王、有間皇子大津皇子という事件にかかわる感情も、ここで、「哀傷」ということに、いわば統制されて『歴史』に定位されています。泣血哀慟歌のような、私情として見出されてありえたものも、おなじく『哀』であって、おなじ題詞のもとに組織されるのです。感情の枠をつくるものだといえます。」

 万葉集の「歴史」世界構築にあたり、柿本人麻呂の石見相聞歌や泣血哀慟歌など「私情」ではあるが、公表すべき私情として制度化したと考えられる。

 柿本人麻呂歌集を核として展開される万葉集のベースとなる考え方もこの段階において育まれていたとも考えらるのであろう。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林 第三版」