―その1455―
●歌は、「釧着く答志の﨑に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ」である。
●歌をみていこう。
◆釼著 手節乃埼二 今日毛可母 大宮人之 玉藻苅良武
(柿本人麻呂 巻一 四一)
≪書き下し≫釧(くしろ)着(つ)く答志(たふし)の崎に今日(けふ)もかも大宮人(おおみやびと)の玉藻(たまも)刈るらむ
(訳)あの麗(うるわ)しい答志(とうし)の崎で、今日あたりも、大宮人が美しい藻を刈って楽しんでいることであろうか。(同上)
(注)くしろ【釧】名詞:古代の腕輪。石・玉・貝・金属などで作り、腕や手首につけて飾りとした。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注の注)くしろつく【釧着く】[枕]:《釧を着ける手から》地名「手節(たふし)」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注)答志の崎:小浜の浦の北東海上答志島の崎。(伊藤脚注)
―その1456―
●歌は、「潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島みを」である。
●歌をみていこう。
◆潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎
(柿本人麻呂 巻一 四二)
≪書き下し≫潮騒(しほさゐ)に伊良虞(いらご)の島辺(しまへ)漕ぐ舟に妹(いも)乗るらむか荒き島(しま)みを
(訳)潮(うしお)ざわめく中、伊良虞の島辺(しまべ)を漕ぐ船に、今頃、あの娘(こ)は乗っていることであろうか。あの風波(かざなみ)の荒い島あたり。(同上)
(注)潮騒に:潮のざわめく中。第四句の「妹乗る」に続く。(伊藤脚注)
(注)-み【回・廻・曲】接尾語:〔地形を表す名詞に付いて〕…の湾曲した所。…のまわり。「磯み」「浦み」「島み」「裾(すそ)み(=山の裾のまわり)」(学研)
四〇~四二歌の題詞は、「幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌」<伊勢の国に幸す時に、京に留(とど)まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌>である。
四〇~四二歌の地名を追ってみよう。
地名の解説は、伊勢市立図書館「ふるさと文庫」2019年10月号「万葉集」の「持統天皇と伊勢へ」の稿より引用させていただきました。
四〇歌には「嗚呼見の浦(あみのうら)という地名が詠まれている。
※あみの浦(嗚呼見乃浦)→三重県下であろうが、所在未詳。鳥羽市小浜町に現在も「あみの浜」という地名があるのを拠り所にその辺りかとする説もあるが確実でない。
四一歌には「答志の﨑(たふしのさき)」が詠まれている。
※答志の崎→三重県鳥羽市答志町。鳥羽港外北東の答志島。「答志の崎」が島内のどこをさすか不明。あるいは船がかりのできる、東部の大字答志の近くを思い浮かべたものか。
四二歌には「伊良虞(いらご)の島辺(しまへ)」が詠まれている。
※伊良虞の島辺→伊良湖は三河国に属するが、作者は伊勢行幸と聞いてこの地名を思い浮かべたのであろう。この行幸は三河国に及んでいない。
持統天皇の伊勢行幸の際の歌で、人麻呂は題詞にあるように「京に留ま」り作歌している。このシリーズでは、従駕した当麻真人麻呂の妻の歌ならびに従駕した石上麻呂の歌が収録されている。
これらの歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1419)」で紹介している。
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―その1457―
●歌は、「引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌」<二年壬寅(みずのえとら)に、太上天皇(おほきすめらみこと)、三河の国に幸(いでま)す時の歌>である。
(注)大宝二年:702年
◆引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓
(長忌寸意吉麻呂 巻一 五七)
≪書き下し≫引馬野(ひくまの)ににほふ榛原(はりはら)入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
(訳)引馬野(ひくまの)に色づきわたる榛(はり)の原、この中にみんな入り乱れて衣を染めなさい。旅の記念(しるし)に。(同上)
(注)引馬野(ひくまの):愛知県豊川市(とよかわし)御津(みと)町の一地区。『万葉集』に「引馬野ににほふ榛原(はりばら)入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに」と歌われた引馬野は、豊川市御津町御馬(おんま)一帯で、古代は三河国国府(こくふ)の外港、近世は三河五箇所湊(ごかしょみなと)の一つだった。音羽(おとわ)川河口の低湿地に位置し、引馬神社がある。(コトバンク 日本大百科全書<ニッポニカ>)
(注)はり【榛】名詞:はんの木。実と樹皮が染料になる。(学研)
(注)にほふ【匂ふ】:自動詞 ①美しく咲いている。美しく映える。②美しく染まる。(草木などの色に)染まる。③快く香る。香が漂う。④美しさがあふれている。美しさが輝いている。⑤恩を受ける。おかげをこうむる。
他動詞:①香りを漂わせる。香らせる。②染める。色づける。(学研)
左注は、「右一首長忌寸奥麻呂」<右の一首は長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)>である。
―その1458―
●歌は、「いづくにか舟泊てすらむ安礼の﨑漕ぎ廻み行きし棚なし小舟」である。
万葉の小径の歌碑巡りといってもミニ登山みたいなものである。腰の悪い家内を駐車場で待たせているからか気がせいていたのであろう(完全に言い訳であるが)。この写真を撮って満足したのか肝心の歌碑の写真を撮っていないことに、家に帰って写真を整理している時に気が付いたのである。大失敗である。
機会があれば・・・としか書きようがない。
●歌をみていこう。
◆何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟
(高市黒人 巻一 五八)
≪書き下し≫いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟
(訳)今頃、どこに舟泊(ふなど)まりしているのであろうか。さっき安礼の﨑を漕ぎめぐって行った、あの横板もない小さな舟は。(同上)
(注)あれのさき【安礼崎】:愛知県南部、御津(みと)町の渥美湾に突き出ていた崎。下佐脇新田(しもさわきしんでん)の西端にあったとみられる。(広辞苑無料検索 日本国語大辞典)
(注)たななしをぶね【棚無し小舟】名詞:船棚がない小さな舟。(学研)
左注は、「右一首高市連黒人」<右の一首は高市連黒人(たけちのむらじくろひと)>である。
「その1457」の長忌寸意吉麻呂の五七歌とともに持統上皇の三河行幸の行幸先の宴歌である。行幸後の宴歌(五九~六一歌)も収録されている。
これらについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1426)で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集(持統天皇と伊勢へ)」 (伊勢市立図書館「ふるさと文庫」2019年10月号)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」