―その1484―
●歌は、「しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て・・・」である。
●歌碑(プレート)は、愛知県浜松市北区 三ヶ日町乎那の峯(P22)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「見河内大橋獨去娘子歌一首并短歌」<河内(かふち)の大橋を独り行く娘子(をとめ)を見る歌一首并(あは)せて短歌>である。
◆級照 片足羽河之 左丹塗 大橋之上従 紅 赤裳數十引 山藍用 摺衣服而 直獨 伊渡為兒者 若草乃 夫香有良武 橿實之 獨歟将宿 問巻乃 欲我妹之 家乃不知久
(高橋虫麻呂 巻九 一七四二)
≪書き下し≫しなでる 片足羽川(かたしはがは)の さ丹(に)塗(ぬ)りの 大橋の上(うへ)ゆ 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾引(すそび)き 山藍(やまあゐ)もち 摺(す)れる衣(きぬ)着て ただひとり い渡らす子は 若草の 夫(つま)かあるらむ 橿(かし)の実の ひとりか寝(ぬ)らむ 問(と)はまくの 欲(ほ)しき我妹(わぎも)が 家の知らなく
(訳)ここ片足羽川のさ丹塗りの大橋、この橋の上を、紅に染めた美しい裳裾を長く引いて、山藍染めの薄青い着物を着てただ一人渡って行かれる子、あの子は若々しい夫がいる身なのか、それとも、橿の実のように独り夜を過ごす身なのか。妻どいに行きたいかわいい子だけども、どこのお人なのかその家がわからない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)「しなでる」は片足羽川の「片」にかかる枕詞とされ、どのような意味かは不明です。(「歌の解説と万葉集」柏原市HP)
(注)「片足羽川」は「カタアスハガハ」とも読み、ここでは「カタシハガハ」と読んでいます。これを石川と考える説もありますが、通説通りに大和川のことで間違いないようです。(同上)
(注)さにぬり【さ丹塗り】名詞:赤色に塗ること。また、赤く塗ったもの。※「さ」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)くれなゐの【紅の】分類枕詞:紅色が鮮やかなことから「いろ」に、紅色が浅い(=薄い)ことから「あさ」に、紅色は花の汁を移し染めたり、振り出して染めることから「うつし」「ふりいづ」などにかかる。(学研)
(注)やまあい【山藍】:トウダイグサ科の多年草。山中の林内に生える。茎は四稜あり、高さ約40センチメートル。葉は対生し、卵状長楕円形。雌雄異株。春から夏、葉腋ようえきに長い花穂をつける。古くは葉を藍染めの染料とした。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)
(注)わかくさの【若草の】分類枕詞:若草がみずみずしいところから、「妻」「夫(つま)」「妹(いも)」「新(にひ)」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)かしのみの【橿の実の】の解説:[枕]樫の実、すなわちどんぐりは一つずつなるところから、「ひとり」「ひとつ」にかかる。(goo辞書)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1033)」で、紹介している。「片足羽川」は大和川と考えられており、江戸時代にしばしば氾濫する大和川の付け替えに尽力した「中 甚兵衛」の立像や石碑、「西暦1703年代大和川流域の図」などが、立ち並んでいる大阪府柏原市上市 大和川治水記念公園の歌碑と共に紹介している。
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大和川は、平城京の物資輸送に大きな役割を果たしていた。しかし、天平 六年(734年)四月の畿内の大地震の時の大和川亀ノ瀬峡谷部での地滑りにより、舟運に支障が生じたため、その解決策として聖武天皇は、淀川・木津川水系の利用を,恭仁京遷都に合わせて進めていたのと考えられている。
これまで「彷徨の五年」と言われ「逃避行」と思われてきたが、水運という国土経営の観点から新たな仮説が建てられている。
このことに関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1225)」で紹介している。
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(注の注)「名の由来は、山藍(やまあい)で、山に自生する藍染めから、ヤマアイの名になった。」(「薬用植物一覧表」和ハーブ協会HPより)
―その1485―
●歌は、「三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが」である。
●歌碑(プレート)は、愛知県浜松市北区 三ヶ日町乎那の峯(P23)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「那賀郡曝井歌一首」<那賀(なか)の郡(こほり)の曝井(さらしゐ)の歌一首>である。
(注)曝井:衣服をさらす井戸。常陸風土記に曝井の記事があり、夏、洗濯のため婦女が集まると記す。(伊藤脚注)
◆三栗乃 中尓向有 曝井之 不絶将通 従所尓妻毛我
(高橋虫麻呂 巻九 一七四五)
≪書き下し≫三栗(みつぐり)の那賀(なか)に向へる曝井(さらしゐ)の絶えず通(かよ)はむそこに妻もが
(訳)那賀の村のすぐ向かいにある曝井の水、その水が絶え間なく湧くように、ひっきりなしに通いたい。そこに妻がいてくれたらよいのに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)みつぐりの【三栗の】分類枕詞:栗のいがの中の三つの実のまん中の意から「中(なか)」や、地名「那賀(なか)」にかかる。(学研)
(注)上三句は序。「絶えず」を起こす。
「曝井(さらしい)」については、茨城県HP「常陸国風土記」に次の様に書かれている。
「近隣の女性たちがここに集い、布を洗って乾したというだけではなく、人々が集う場として、交通の要所としての役割や、男女の交流の場であったと考えられる。現在は『萬葉曝井の森』という公園として整備されており、市民の憩いの場となっている。」
同HPには「常陸国風土記の記載内容」として、次の様に書かれている。
「那賀郡 郡より東北のかた、粟河を挟みて駅家を置く。其より南にあたりて、泉、坂の中に出づ。多に流れて尤清く、曝井と請ふ。泉に縁りて居める村落の婦女、夏の月に会集ひて、布を浣ひ、曝し乾せり。」
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1172)」で紹介している。
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―その1486―
●歌は、「君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小枝も取らむとも思はず」である。
●歌碑(プレート)は、愛知県浜松市北区 三ヶ日町乎那の峯(P24)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「石川大夫遷任上京時播磨娘子贈歌二首」<石川大夫(いしかはのまへつきみ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、播磨娘子(はりまのをとめ)が贈る歌二首>である。
◆君無者 奈何身将装餝 匣有 黄楊之小梳毛 将取跡毛不念
(播磨娘子 巻九 一七七七)
≪書き下し≫君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず
(訳)あなた様がいらっしゃらなくては、何でこの身を飾りましょうか。櫛笥(くしげ)の中の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)さえ手に取ろうとは思いません。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)くしげ【櫛笥】名詞:櫛箱。櫛などの化粧用具や髪飾りなどを入れておく箱。(学研)
(注)つげ【黄楊/柘植】:ツゲ科の常緑低木。関東以西の山地に自生。葉は対生で密につき楕円形で小さく堅い。春、淡黄色の小花が群生する。材は緻密(ちみつ)で堅く櫛(くし)・印材や将棋の駒などに用いられる。ほんつげ。朝熊(あさま)つげ。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注の注)つげ (黄楊):わが国の本州、関東地方以西から四国・九州に分布しています。石灰岩地や蛇紋岩地に生え、高さは9メートルほどになります。樹皮は灰白色から淡褐灰色で、古くなると割れ目が入ります。葉は倒卵形で対生し、縁は全縁でやや反り返ります。3月から4月ごろ、葉腋に花弁のない小さな淡黄色の花を咲かせます。葉にはアルカロイドのブキシンが含まれ有毒です。(weblio辞書 植物図鑑)
この歌ならびに一七七六歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その691)」で紹介している。
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■■■広島県万葉歌碑巡り2日目ルート■■■
ホテル⇒つれしおの石ぶみ(文学の散歩道)⇒広島大学附属福山中・高等学校⇒沼名前神社⇒福禅寺対潮楼⇒福山市鞆の浦歴史民俗資料館⇒自宅
■ホテル⇒つれしおの石ぶみ(文学の散歩道)
瀬戸内しまなみ海道を因島に向け突っ走る。因島大橋、周りの海上風景を楽しみながら。因島南ICを出て一般道へ。因島公園の案内標識もばっちりである。
海岸縁を走り土生港あたりまで来る。ナビに従って進むが、車が侵入できそうもない街中の道を進めとの指示が。行っては戻り、再挑戦するもどこからも恐怖の細道を進めという。ここまで順調に来れたのに。
土生港の駐車場に車を停める。1階に観光案内所があったので、道を尋ねる。詳しい地図を出して説明していただく。途中、ナビでは街中の細い道しか出てこない旨も話してみた。
すると、係りの人は「ホテルいんのしま」でインプットされたら目の前が、因島公園と文学の散歩道の入口になっています。」と教えていただいた。
車に戻り、インプットし直す。指示に従いつづら折れの山道を上る。ホテルいんのしまの前に鯖大師の立像が。
鯖大師の立像に向かって左手後ろに「つれしおの石ぶみ(文学の散歩道)」の碑があった。
そこから急な上り道で万葉の歌を初め小林一茶、志賀直哉等々文学者の碑が建てられて頂上まで続いている。
万葉歌碑は入口すぐであったので、正直ほっとした。
■つれしおの石ぶみ(文学の散歩道)⇒広島大学附属福山中・高等学校
次の目的地である広島大学附属福山中・高等学校に向かう。
事務室の行き、万葉歌碑を見せていただきたいと申し出る。窓口の方が事務所奥の部屋に入って行かれた。応対に来られた方に再度お願いをして見ると、快くしかも案内しましょう、とおっしゃっていただく。
構内のあちこちに散らばっているとのこと。2基を巡ったところで、昼食休憩している学生4人のグループに「現役生諸君、万葉歌碑の場所、分かるかな?」とその方が尋ねられた。一人は、確か〇〇にあったはず、と飛び出して行く。軽やかな走りに感動してしまう。
一度情業で、歌碑を探せというのがあったそうである。もう一人の学生さんは携帯に写真を撮ってあり、背景から場所を特定しようと、レンガの向きが横だからここではないとか。
学生さんの協力を得て5基を巡ることが出来たのである。有り難いことである。
お礼を申し上げると、なんと、ご案内いただいた方から「広島大学附属福山中・高等学校/編著「万葉植物物語」(中国新聞社発行)の本を頂いたのである。「読んでいただける方にもらっていただけるのが一番です」と。案内までしていただき、本まで頂戴する、何という幸せ、感謝、感謝、感謝そして感動である。
ブログ紙面を借りて厚く、厚く、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
■広島大学附属福山中・高等学校⇒沼名前神社
嬉しさがはじけんばかりの状態で次の目的地に車を走らす。到着。
参道を上る。きついが軽やかに。境内左手の見晴らしの良い所に歌碑が設置されていた。
■沼名前神社⇒福禅寺対潮楼
次は鞆の浦である。観光駐車場に車を停める。駐車場近くの福禅寺対潮楼の石垣下に歌碑が建てられていた。
観光地図によると対潮楼から歴史民俗資料館まで10分程度の距離である。地図は平面である。これが失敗のもとであった。何と急な上り坂であることか。ここまできたら上らざるをえない。腰の悪い家内の手を引っ張り、休み休みののろのろ歩きである。
歌碑は資料館前の見晴らしの良いところに建てられていた。
帰りがまた急な下り坂に石段である。
歌碑巡りはやはり体力勝負の世界である。
帰りの時間を考え、ここで巡りは終了とする。後3箇所見て周る予定にしていたが、残りはまた後日。
福山市は、「ばらのまち福山」と言われ、公園はもちろん、歩道の植込みもほとんどがバラである。
バラに癒されながら帰路についたのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「weblio辞書 植物図鑑」
★「goo辞書」
★「薬用植物一覧表」 (和ハーブ協会HP)