万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1484,1485,1486)―愛知県浜松市北区 三ヶ日町乎那の峯(P22、P23、P24)―万葉集 巻九 一七四二、巻九 一七五四、巻九 播磨娘子

―その1484―

●歌は、「しなでる 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て・・・」である。

愛知県浜松市北区 三ヶ日町乎那の峯(P22)万葉歌碑<プレート>(高橋虫麻呂

●歌碑(プレート)は、愛知県浜松市北区 三ヶ日町乎那の峯(P22)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「見河内大橋獨去娘子歌一首并短歌」<河内(かふち)の大橋を独り行く娘子(をとめ)を見る歌一首并(あは)せて短歌>である。

 

◆級照 片足羽河之 左丹塗 大橋之上従 紅 赤裳數十引 山藍用 摺衣服而 直獨 伊渡為兒者 若草乃 夫香有良武 橿實之 獨歟将宿 問巻乃 欲我妹之 家乃不知久

        (高橋虫麻呂 巻九 一七四二)

 

≪書き下し≫しなでる 片足羽川(かたしはがは)の さ丹(に)塗(ぬ)りの 大橋の上(うへ)ゆ 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾引(すそび)き 山藍(やまあゐ)もち 摺(す)れる衣(きぬ)着て ただひとり い渡らす子は 若草の 夫(つま)かあるらむ 橿(かし)の実の ひとりか寝(ぬ)らむ 問(と)はまくの 欲(ほ)しき我妹(わぎも)が 家の知らなく

 

(訳)ここ片足羽川のさ丹塗りの大橋、この橋の上を、紅に染めた美しい裳裾を長く引いて、山藍染めの薄青い着物を着てただ一人渡って行かれる子、あの子は若々しい夫がいる身なのか、それとも、橿の実のように独り夜を過ごす身なのか。妻どいに行きたいかわいい子だけども、どこのお人なのかその家がわからない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)「しなでる」は片足羽川の「片」にかかる枕詞とされ、どのような意味かは不明です。(「歌の解説と万葉集柏原市HP)

(注)「片足羽川」は「カタアスハガハ」とも読み、ここでは「カタシハガハ」と読んでいます。これを石川と考える説もありますが、通説通りに大和川のことで間違いないようです。(同上)

(注)さにぬり【さ丹塗り】名詞:赤色に塗ること。また、赤く塗ったもの。※「さ」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)くれなゐの【紅の】分類枕詞:紅色が鮮やかなことから「いろ」に、紅色が浅い(=薄い)ことから「あさ」に、紅色は花の汁を移し染めたり、振り出して染めることから「うつし」「ふりいづ」などにかかる。(学研)

(注)やまあい【山藍】:トウダイグサ科多年草。山中の林内に生える。茎は四稜あり、高さ約40センチメートル。葉は対生し、卵状長楕円形。雌雄異株。春から夏、葉腋ようえきに長い花穂をつける。古くは葉を藍染めの染料とした。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)

(注)わかくさの【若草の】分類枕詞:若草がみずみずしいところから、「妻」「夫(つま)」「妹(いも)」「新(にひ)」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かしのみの【橿の実の】の解説:[枕]樫の実、すなわちどんぐりは一つずつなるところから、「ひとり」「ひとつ」にかかる。(goo辞書)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1033)」で、紹介している。「片足羽川」は大和川と考えられており、江戸時代にしばしば氾濫する大和川の付け替えに尽力した「中 甚兵衛」の立像や石碑、「西暦1703年代大和川流域の図」などが、立ち並んでいる大阪府柏原市上市 大和川治水記念公園の歌碑と共に紹介している。

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大和川は、平城京の物資輸送に大きな役割を果たしていた。しかし、天平 六年(734年)四月の畿内の大地震の時の大和川亀ノ瀬峡谷部での地滑りにより、舟運に支障が生じたため、その解決策として聖武天皇は、淀川・木津川水系の利用を,恭仁京遷都に合わせて進めていたのと考えられている。

これまで「彷徨の五年」と言われ「逃避行」と思われてきたが、水運という国土経営の観点から新たな仮説が建てられている。

このことに関しては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1225)」で紹介している。

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(注の注)「名の由来は、山藍(やまあい)で、山に自生する藍染めから、ヤマアイの名になった。」(「薬用植物一覧表」和ハーブ協会HPより)

「ヤマアイ」 「薬用植物一覧表」和ハーブ協会HPより引用させていただきました。

 

 

―その1485―

●歌は、「三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが」である。

愛知県浜松市北区 三ヶ日町乎那の峯(P23)万葉歌碑<プレート>(高橋虫麻呂

●歌碑(プレート)は、愛知県浜松市北区 三ヶ日町乎那の峯(P23)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「那賀郡曝井歌一首」<那賀(なか)の郡(こほり)の曝井(さらしゐ)の歌一首>である。

(注)那賀郡:茨城県水戸市の北方。(伊藤脚注)

(注)曝井:衣服をさらす井戸。常陸風土記に曝井の記事があり、夏、洗濯のため婦女が集まると記す。(伊藤脚注)

 

◆三栗乃 中尓向有 曝井之 不絶将通 従所尓妻毛我

      (高橋虫麻呂 巻九 一七四五)

 

≪書き下し≫三栗(みつぐり)の那賀(なか)に向へる曝井(さらしゐ)の絶えず通(かよ)はむそこに妻もが

 

(訳)那賀の村のすぐ向かいにある曝井の水、その水が絶え間なく湧くように、ひっきりなしに通いたい。そこに妻がいてくれたらよいのに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)みつぐりの【三栗の】分類枕詞:栗のいがの中の三つの実のまん中の意から「中(なか)」や、地名「那賀(なか)」にかかる。(学研)

(注)上三句は序。「絶えず」を起こす。

 

 「曝井(さらしい)」については、茨城県HP「常陸国風土記」に次の様に書かれている。

 「近隣の女性たちがここに集い、布を洗って乾したというだけではなく、人々が集う場として、交通の要所としての役割や、男女の交流の場であったと考えられる。現在は『萬葉曝井の森』という公園として整備されており、市民の憩いの場となっている。」

 同HPには「常陸国風土記の記載内容」として、次の様に書かれている。

「那賀郡 郡より東北のかた、粟河を挟みて駅家を置く。其より南にあたりて、泉、坂の中に出づ。多に流れて尤清く、曝井と請ふ。泉に縁りて居める村落の婦女、夏の月に会集ひて、布を浣ひ、曝し乾せり。」

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1172)」で紹介している。

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―その1486―

●歌は、「君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小枝も取らむとも思はず」である。

愛知県浜松市北区 三ヶ日町乎那の峯(P24)万葉歌碑<プレート>(播磨娘子)

●歌碑(プレート)は、愛知県浜松市北区 三ヶ日町乎那の峯(P24)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「石川大夫遷任上京時播磨娘子贈歌二首」<石川大夫(いしかはのまへつきみ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、播磨娘子(はりまのをとめ)が贈る歌二首>である。

 

◆君無者 奈何身将装餝 匣有 黄楊之小梳毛 将取跡毛不念

      (播磨娘子 巻九 一七七七)

 

≪書き下し≫君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず

 

(訳)あなた様がいらっしゃらなくては、何でこの身を飾りましょうか。櫛笥(くしげ)の中の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)さえ手に取ろうとは思いません。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)くしげ【櫛笥】名詞:櫛箱。櫛などの化粧用具や髪飾りなどを入れておく箱。(学研)

(注)つげ【黄楊/柘植】:ツゲ科の常緑低木。関東以西の山地に自生。葉は対生で密につき楕円形で小さく堅い。春、淡黄色の小花が群生する。材は緻密(ちみつ)で堅く櫛(くし)・印材や将棋の駒などに用いられる。ほんつげ。朝熊(あさま)つげ。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注の注)つげ (黄楊):わが国の本州、関東地方以西から四国・九州に分布しています。石灰岩地や蛇紋岩地に生え、高さは9メートルほどになります。樹皮は灰白色から淡褐灰色で、古くなると割れ目が入ります。葉は倒卵形で対生し、縁は全縁でやや反り返ります。3月から4月ごろ、葉腋に花弁のない小さな淡黄色の花を咲かせます。葉にはアルカロイドのブキシンが含まれ有毒です。(weblio辞書 植物図鑑)

 つげ (黄楊) 「weblio辞書 植物図鑑」より引用させていただきました。

 この歌ならびに一七七六歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その691)」で紹介している。

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■■■広島県万葉歌碑巡り2日目ルート■■■

ホテル⇒つれしおの石ぶみ(文学の散歩道)⇒広島大学附属福山中・高等学校⇒沼名前神社⇒福禅寺対潮楼⇒福山市鞆の浦歴史民俗資料館⇒自宅

 

 

「文学の散歩みち・・・つれしおの石ぶみ」案内図

■ホテル⇒つれしおの石ぶみ(文学の散歩道)

 瀬戸内しまなみ海道因島に向け突っ走る。因島大橋、周りの海上風景を楽しみながら。因島南ICを出て一般道へ。因島公園の案内標識もばっちりである。

 海岸縁を走り土生港あたりまで来る。ナビに従って進むが、車が侵入できそうもない街中の道を進めとの指示が。行っては戻り、再挑戦するもどこからも恐怖の細道を進めという。ここまで順調に来れたのに。

 土生港の駐車場に車を停める。1階に観光案内所があったので、道を尋ねる。詳しい地図を出して説明していただく。途中、ナビでは街中の細い道しか出てこない旨も話してみた。

 すると、係りの人は「ホテルいんのしま」でインプットされたら目の前が、因島公園と文学の散歩道の入口になっています。」と教えていただいた。

 車に戻り、インプットし直す。指示に従いつづら折れの山道を上る。ホテルいんのしまの前に鯖大師の立像が。

 鯖大師の立像に向かって左手後ろに「つれしおの石ぶみ(文学の散歩道)」の碑があった。

 そこから急な上り道で万葉の歌を初め小林一茶志賀直哉等々文学者の碑が建てられて頂上まで続いている。

 万葉歌碑は入口すぐであったので、正直ほっとした。

 

広島大学附属福山中・高等学校構内バラ園

■つれしおの石ぶみ(文学の散歩道)⇒広島大学附属福山中・高等学校

 次の目的地である広島大学附属福山中・高等学校に向かう。

 事務室の行き、万葉歌碑を見せていただきたいと申し出る。窓口の方が事務所奥の部屋に入って行かれた。応対に来られた方に再度お願いをして見ると、快くしかも案内しましょう、とおっしゃっていただく。

 構内のあちこちに散らばっているとのこと。2基を巡ったところで、昼食休憩している学生4人のグループに「現役生諸君、万葉歌碑の場所、分かるかな?」とその方が尋ねられた。一人は、確か〇〇にあったはず、と飛び出して行く。軽やかな走りに感動してしまう。

 一度情業で、歌碑を探せというのがあったそうである。もう一人の学生さんは携帯に写真を撮ってあり、背景から場所を特定しようと、レンガの向きが横だからここではないとか。

 学生さんの協力を得て5基を巡ることが出来たのである。有り難いことである。

 お礼を申し上げると、なんと、ご案内いただいた方から「広島大学附属福山中・高等学校/編著「万葉植物物語」(中国新聞社発行)の本を頂いたのである。「読んでいただける方にもらっていただけるのが一番です」と。案内までしていただき、本まで頂戴する、何という幸せ、感謝、感謝、感謝そして感動である。

 ブログ紙面を借りて厚く、厚く、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

浮名前神社社殿

広島大学附属福山中・高等学校⇒沼名前神社

 嬉しさがはじけんばかりの状態で次の目的地に車を走らす。到着。

 参道を上る。きついが軽やかに。境内左手の見晴らしの良い所に歌碑が設置されていた。

 

対潮楼石垣下万葉歌碑

■沼名前神社⇒福禅寺対潮楼

 次は鞆の浦である。観光駐車場に車を停める。駐車場近くの福禅寺対潮楼の石垣下に歌碑が建てられていた。

 

民俗資料館万葉歌碑と遠望

■福禅寺対潮楼⇒福山市鞆の浦歴史民俗資料館

 観光地図によると対潮楼から歴史民俗資料館まで10分程度の距離である。地図は平面である。これが失敗のもとであった。何と急な上り坂であることか。ここまできたら上らざるをえない。腰の悪い家内の手を引っ張り、休み休みののろのろ歩きである。

 歌碑は資料館前の見晴らしの良いところに建てられていた。

 帰りがまた急な下り坂に石段である。

 歌碑巡りはやはり体力勝負の世界である。

 

帰りの時間を考え、ここで巡りは終了とする。後3箇所見て周る予定にしていたが、残りはまた後日。

 福山市は、「ばらのまち福山」と言われ、公園はもちろん、歩道の植込みもほとんどがバラである。

 バラに癒されながら帰路についたのである。

福山SAにて



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 植物図鑑」

★「goo辞書」

★「常陸国風土記」(茨城県HP)

★「薬用植物一覧表」 (和ハーブ協会HP)