万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1509)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(1)―万葉集 巻二十 四三二二

●歌は、「我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(1)万葉歌碑(若倭部身麻呂)

●歌碑は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆和我都麻波 伊多久古非良之 乃牟美豆尓 加其佐倍美曳弖 余尓和須良礼受

      (若倭部身麻呂 巻二十 四三二二)

 

≪書き下し≫我が妻(つま)はいたく恋ひらし飲む水に影(かげ)さへ見えてよに忘られず

 

(訳)おれの妻は、ひどくこのおれを恋しがっているらしい。飲む水の上に影まで映って見えて、ちっとも忘れられない。(同上)

(注)よに【世に】副詞:①たいそう。非常に。まったく。②〔下に打消の語を伴って〕決して。全然。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌の左注は、「右一首主帳丁麁玉郡若倭部身麻呂」<右の一首は主帳丁(しゆちやうのちやう)麁玉(あらたま)の郡(こほり)の若倭部身麻呂(わかやまとべのみまろ)>である。

(注)しゆちやう【主帳】:律令制で、諸国の郡または軍団に置かれ、文書の起草・受理をつかさどった職。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)麁玉の郡:静岡県浜松市付近一帯。(伊藤脚注)

歌の解説案内板

 四三二一から四四二四歌の歌群(中に家持の歌が二十首ある)八十四首の題詞は、「天平勝寶七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌」<天平勝宝(てんびやうしようほう)七歳乙未(きのとひつじ)の二月に、相替(あひかはり)りて筑紫(つくし)に遣(つか)はさゆる諸国の防人等(さきもりら)が歌>である。

 

 四三二一から四三二七歌の歌群の左注は、「二月の六日、防人部領使(さきもりのことりづかひ)遠江國史生坂本朝臣人上進歌數十八首 但有拙劣歌十一首不取載之」<二月六日に、防人(さきもりの)部領使(ことりつかひ)遠江 (とほつあふみ)の国の史生(ししやう)坂本朝臣人上(さかもとのあそみひとかみ)。進(たてまつ)る歌の数(かず)十八首。ただし拙劣(せつれつ)の歌十一首有るは取り載(の)せず。>である。

(注)とほたふみ【遠江】:旧国名の一。現在の静岡県西部。遠淡海(とおつおうみ)(浜名湖)のある国の意。遠州。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 駐車場から回り込むと平城京を模して作られた築地塀と門がある。そこが万葉の森公園の入口である。入ってすぐに出迎えてくれるのが、この歌碑である。万葉の森公園では万葉植物約300種類が植えられ、歌碑4基(①巻二十 四三二二、②巻十四 三三五四、③巻二 一六六、④巻五 八〇三<駐車場>)そして植物に関連した歌碑(プレート)が多数建てられている。

築地塀と門(万葉の入口)

 ④の八〇三歌については、前稿のブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1508)」で紹介したところである。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 他の歌碑ならびに歌碑(プレート)については次稿以降で紹介させていただきます。

 ここでは、四三二一から四三二七歌をみてみよう。

 四三二一歌からである。

 

◆可之古伎夜 美許等加我布理 阿須由利也 加曳我牟多祢牟 伊牟奈之尓志弖

       (物部秋持 巻二十 四三二一)

 

≪書き下し≫畏(かしこ)きや命(みこと)被(かがふ)り明日(あす)ゆりや草(かえ)が共(むた)寝む妹(いむ)なしにして

 

(訳)恐れ多い大君の仰せを承(うけたまわ)って、明日からというものは萱(かや)と一緒に寝ることになるのであろうか。いとしい子もいないままに。(同上)

(注)かや【萱・茅】名詞:すすき・すげ・ちがやなど、屋根をふく丈の高い草の総称。▽上代東国方言では「かえ」とも(学研)

(注)いむ:「いも」の東国訛り。

 

 左注は、「右一首國造丁長下郡物部秋持」<右の一首は国造丁(くにのみやつこのちやう)長下(ながしも)の郡(こほり)の物部秋持(もののべのあきもち)>である。

 

 

◆等伎騰吉乃 波奈波佐家登母 奈尓須礼曽 波々登布波奈乃 佐吉泥己受祁牟

      (丈部真麻呂 巻二十 四三二三)

 

≪書き下し≫時々(ときどき)の花は咲けども何すれぞ母(はは)とふ花の咲き出(で)来(こ)ずけむ

 

(訳)四季折々の花は咲くけれど、何でまあ、これまで母という花が咲き出てこなかったのであろう。(同上)

 

 左注は、「右一首防人山名郡丈部真麻呂」<右の一首は、防人 山名(やまな)の郡の丈部真麻呂(はせべのままろ)>である。

 

 

◆等倍多保美 志留波乃伊宗等 尓閇乃宇良等 安比弖之阿良婆 己等母加由波牟

      (丈部川相 巻二十 四三二四)

 

≪書き下し≫遠江(とへたほみ)志留波(しるは)の磯(いそ)と爾閇(にへ)の浦と合ひてしあらば言(こと)も通(かゆ)はむ

(注)志留波:静岡県磐田市から袋井市にかけての地。(伊藤脚注)

 

(訳)故郷遠江(とおとうみ)の志留波(しるは)の磯とこの爾閇(にへ)の浦とがもし一続きであったなら、せめて言葉だけなりと交わすことができよう。(同上)

(注)通(かゆ)ふ:通(かよ)ふの東国訛り。

 

左注は、「右一首同郡丈部川相」<右の一首は同(おな)じき郡の丈部川相(はせべのかはひ)>である。

 

 

◆知ゝ波ゝ母 波奈尓母我毛夜 久佐麻久良 多妣波由久等母 佐々己弖由加牟

     (丈部黒当 巻二十 四三二五)

 

≪書き下し≫父母(ちちはは)も花にもがもや草枕旅は行くとも捧(さき)ごて行かむ

 

(訳)父さん母さんがせめて花ででもあってくれればよい。そしたら草を枕の旅なんかに行くにしても、捧げ持って行こうものを。(同上)

(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)

 

 左注は、「右一首佐野郡丈部黒当」<右の一首は佐野(さや)の郡丈部黒当(はせべのくろまさ)>である。

 

 

◆父母我 等能々ゝ志利弊乃 母ゝ余具佐 母ゝ与伊弖麻勢 和我伎多流麻弖

      (壬生部足国 巻二十 四三二六)

 

≪書き下し≫父母が殿(との)の後方(しりへ)のももよ草(ぐさ)百代(ももよ)いでませ我(わ)が来(きた)るまで

 

(訳)父さん母さんが住む母屋(おもや)の裏手のももよ草、そのよももよというではないが、どうか百歳(ももよ)までお達者で。私が帰って来るまで。(同上)

(注)ももよ草:未詳 上三句は序。「百代」を起こす。

 

 左注は、「右一首同郡生玉部足國」<右の一首は、同(おな)じき郡(こほり)の壬生部(みぶべ)足国(たりくに)>である。

(注)みぶべ【壬生部】〔名〕 令制前、王子の養育に奉仕するために設定された部(べ)。壬生。(weblio辞書 精選版日本国語大辞典

 

 

◆和我都麻母 畫尓可伎等良無 伊豆麻母加 多妣由久阿礼波 美都々志努波牟

      (物部古麻呂 巻二十 四三二七)

 

≪書き下し≫我が妻も絵(ゑ)に描(か)き取らむ暇(いつま)もが旅行く我(あ)れは見つつ偲はむ

 

(訳)我が妻をせめて絵に書き写す暇があったならな。長い旅路を行くおれは、それを見ては妻を偲ぼうに。(同上)

 

 左注は、「右一首長下郡物部古麻呂」<右の一首は長下(ながしも)の郡の物部古麻呂(もののべのこまろ)>である。

 

 四三二二、四三二三、四三二五~四三二七歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1174)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 「防人の歌」というと、九州の任地に派遣され、ある意味国の防衛の任に当たるのであるから、それなりの気構え的な歌が多いとおもいきや自分のことや父母のこと、妻のことなど、「私」の面を前面に押し出している歌がほとんどである。

 万葉集のおおらかさがうかがい知れるのである。

巻二十の防人歌の先頭歌である、四三二一歌の詠いだしは「畏(かしこ)きや命(みこと)被(かがふ)り明日(あす)ゆりや」である。国を守る覚悟の思いを語ると思いきや、「草(かえ)が共(むた)寝む妹(いむ)なしにして」とくるのである。

 「拙劣」と判定せず、万葉集に収録されているのである。素直な人間性を感じさせる一面を感じさてくれるのである。

 万葉集の素晴らしさである。

 

万葉の森公園 案内板


 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 精選版日本国語大辞典

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「はままつ万葉歌碑・故地マップ」 (制作 浜松市

★「万葉の草花が薫りたつ 万葉の森公園」(パンフレット)