万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1540、1541)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P29、P30)ー万葉集 巻二 八五~八八、巻二 九〇の左注

―その1540―

●歌は、「君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ(巻二 八五歌)

   「かくばかり恋つつあらずば高山の岩根しまきて死なましものを(同 八六歌)

   「ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに(同 八七歌)

   「秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ(同 八八歌)である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P29)万葉歌碑<プレート>(磐姫皇后)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P29)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 待尓可将待

           (磐姫皇后 巻二 八五)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山(やま)尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ

 

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。山を踏みわけてお迎えに行こうか。それともこのままじっと待ちつづけようか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)君が行き:「が」は連体助詞、「行き」はお出ましの意。

(注)「尋ぬ」は原則男の行為、「待つ」は普通、女の行為

 

◆如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 死奈麻死物呼

       (磐姫皇后 巻二 八六)

 

≪書き下し≫かくばかり恋ひつつあらずは高山(たかやま)の岩根(いはね)しまきて死なましものを

 

(訳)これほどまでにあの方に恋い焦がれてなんかおらずにいっそのこと、お迎えに出て険しい山の岩を枕にして死んでしまった方がましだ。(同上)

(注)し 副助詞:《接続》体言、活用語の連用形・連体形、副詞、助詞などに付く。〔強意〕⇒参考:「係助詞」「間投助詞」とする説もある。中古以降は、「しも」「しぞ」「しか」「しこそ」など係助詞を伴った形で用いられることが多くなり、現代では「ただし」「必ずしも」「果てしない」など、慣用化した語の中で用いられる。(学研)

 

 「死奈麻物呼」と強意の「し」に「死」と書いているのは、書き手の遊ぶ心であろと思われる。

 

 

◆在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日

       (磐姫皇后 巻二 八七)

 

≪書き下し≫ありつつも君をば待たむうち靡(なび)く我が黒髪(くろかみ)に霜の置くまでに

 

(訳)やはりこのままいつまでもあの方をお待ちすることにしよう。長々と靡くこの黒髪が白髪に変わるまでも。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)在りつつも(読み)アリツツモ[連語]:いつも変わらず。このままでずっと。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)霜を置く(読み)しもをおく:白髪になる。霜をいただく。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)

 

 

◆秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息

      (磐姫皇后 巻二 八八)

 

≪書き下し≫秋の田の穂の上(うへ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)いつへの方(かた)に我(あ)が恋やまむ

 

(訳)秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霞ではないが、いつになったらこの思いは消え去ることか。この霧のように胸のうちはなかなか晴れそうにない。(同上)

 

 

 八五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1035)」で、八六歌については「同(その1036)」で、八七歌は「同(その1034)」で、八八歌は「同(その1037)」でそれぞれ紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 磐姫皇后陵についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1045)」で、平城宮跡北部を、孝謙天皇陵、平城天皇陵、磐姫皇后陵、水上池をプチウォークしたなかで紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1541-

●九〇歌の左注、「・・・皇后紀伊の国に遊行して熊野の岬に到りてその処の御綱葉を取りて還る」である。

 

●左注のプレートは、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P30)にある。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P30)万葉歌碑<プレート>(九〇歌の左注)

●左注をみていこう。

 

◆(左注)「右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰 難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云ゝ 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中 時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大恨之云ゝ 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云ゝ 遂竊通乃悒懐少息廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親ゝ相奸乎云ゝ 仍移太娘皇女於伊豫者 今案二代二時不見此歌也」

 

≪左注の書き下し≫右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌の主(ぬし)もまた異(こと)なり。よりて日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、曰はく、『難波の高津の宮に天の下知らしめす大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと)の二十二年の春の正月に、天皇、皇后(おほきさき)に語りて、八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(きさき)とせむとしたまふ。時に、皇后聴(うけゆる)さず。ここに天皇、歌(みうた)よみして皇后に乞ひたまふ云々(しかしか)。三十年の秋の九月乙卯(きのとう)の朔(つきたち)の乙丑(きのとうし)に、皇后紀伊国(きのくに)に遊行(いで)まして熊野(くまの)の岬(みさき)に到りてその処の御綱葉(みつなかしは)を取りて還(まゐかへ)る。ここに天皇、皇后の在(いま)さぬを伺(うかか)ひて八田皇女(やたのひめみこ)を娶 (め)して宮(おほみや)の中(うち)に納(めしい)れたまふ。時に、皇后難波(なには)の済(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつと聞きて大きに恨みたまふ云々』といふ。また曰はく、『遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)の二十三年の春の三月甲午(きのえうま)の朔(つきたち)の庚子(かのえね)に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子(ひつぎのみこ)となす。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく見る者(ひと)おのずから感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(かほよ)し云々。つひに竊(ひそ)かに通(あ)ふ。すなはち悒懐(いきどほり)少しく息(や)む。二十四年の夏の六月に、御羮(みあつもの)の汁凝(こ)りて氷(ひ)となる。天皇異(あや)しびてその所由(よし)を卜(うら)へしめたまふ。卜者(うらへ)の曰(まを)さく、『内の乱(にだれ)有り。けだしくは親々(はらから)相(どち)奸(たは)けたるか云々』とまをす。よりて、太娘皇女を伊与に移す」といふ。今案(かむが)ふるに、二代二時(ふたとき)にこの歌を見ず。

(注)おおさざきのみこと【大鷦鷯天皇】:仁徳天皇の名。

(注)八田皇女(やたのひめみこ):仁徳天皇の異母妹。当時は、母の違う兄弟姉妹の結婚は認められた。

(注)きさき【后・妃】: 天皇の配偶者。皇后。中宮。また、女御などで天皇の母となった人。律令制では特に称号の第一とされた。 → 夫人・嬪(ひん)と続く。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)熊野の岬:和歌山県南方の海岸。熊野は古代人にとっては聖地。

(注)みつながしは 御綱葉:ウコギ科の常緑小高木カクレミノの葉ともいうが、未詳。万葉集では「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌」(1-85~90)の左注に「皇后、紀伊国に遊行(ゆ)きて、熊野の岬に至り、その処の御綱葉(みつながしは)を取りて還へる」とある。皇后磐姫が紀伊国の出かけたことは、記に「大后(おほきさき)、豊楽(とよのあかり)せむと為(し)て、御綱柏を採りに木国(きのくに)に幸出(いでま)しし間」とあり、紀に、この時期を「秋九月」としている。カシハは、「炊葉」の意であり、食物を盛ったり、覆ったりするのに用いたものであった。例えば、「皇祖の遠き御代御代はい敷折り酒飮むといふそこのほほがしは」(19-4205)のように、葉を折って酒器として用いたホホガシハ(もくれん科)のような例もある。当該のミツナガシハは、その採取の時期が秋であることや、皇后自らこれを採るために紀伊国まで出かけている樣子などを考えると、新嘗祭の神饌を盛る器として用いられるためのものであったと考えられよう。(國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語辞典」)

(注)内の乱れ:同居血縁者の不倫。

(注)二代二時にこの歌を見ず:日本書記には、仁徳・允恭両朝のいずれにも八五・九〇のような歌は見当たらない、の意。八五の歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の歌で、「君が行き日(け)長くなりぬ山尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」である。

 

 

 前稿(その1540)の歌碑(プレート)に「古代最強の“やきもち焼き”磐姫皇后」と書かれていたが、九十歌の左注ならびに磐姫皇后の嫉妬深さについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1038)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 「みつながしわ」については、「オオタニワタリ」、「カクレミノ」、「アカメガシワ」などの説がある。

オオタニワタリ」については、「歴史の情報蔵 第42話オオタニワタリ」(三重県HP)に「常緑性のシダ植物で、伊豆諸島、紀伊半島、九州(西部・南部)、奄美諸島、沖縄などの暖地で見ることができる。・・・オオタニワタリの特徴は葉の形にある。多くの種類のシダ植物の葉は、縁が何度も切れ込み、ヤシやソテツの葉のような形状になるのに対し、オオタニワタリの葉は、縁の切れ込みがまったく見られず、ネクタイをイメージさせるような形状となっている。また、長さが1メートルにもなる大きな葉を根元から放射状に広げるため、見た目も他のシダとは明確に区別できる。」と書かれている。

オオタニワタリ」 「歴史の情報蔵 第42話オオタニワタリ」(三重県HP)より引用させていただきました。

 

 

「カクレミノ」とは、「関東地方以西の本州、四国、九州及び沖縄に分布するウコギ科の常緑樹。海に近い照葉樹林内に自生する・・・葉の形が、狂言『節分』に登場する伝説上の『隠れ蓑』(着ると姿を消すことができる『透明マント』のような代物)に似ていること、あるいは葉の大きなカクレミノの木自体が、目隠し用になることからから命名された。」(庭木図鑑 植木ペディア)

 

 


 「アカメガシワ」は、「・東南アジアの山地に見られるトウダイグサ科の落葉樹。日本では北海道を除く各地に見られ、・・・葉は長さ7~20センチ、幅5~15センチで長い柄があり、枝から互い違いに生じる。形状は環境や個体によって様々だが、若い木では葉の縁が浅く三つに裂けるものが多い。3本の葉脈が目立ち、両面とも細かな毛で覆われる。」(庭木図鑑 植木ペディア)

 


 國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語辞典」に書かれている、「当該のミツナガシハは、その採取の時期が秋であることや、皇后自らこれを採るために紀伊国まで出かけている樣子などを考えると、新嘗祭の神饌を盛る器として用いられるためのものであったと考えられよう」から考えても、また盛る器としての迫力、植物生息の特異性などから考えても「みつながしわ」は、「オオタニワタリ」であるように考えられるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタル・ミュージアムHP)

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「コトバンク 三省堂大辞林 第三版」

★「庭木図鑑 植木ペディア」

★「歴史の情報蔵 第42話オオタニワタリ」(三重県HP)