万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1542、1543、1544)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P31、P32、P33)―万葉集 巻十七 三九一〇、巻五 七九八、巻十六 三八八六

―その1542―

●歌は、「玉に貫く楝を家に植ゑたらば山ほととぎす離れず来むかも」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P31)万葉歌碑<プレート>(大伴書持)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P31)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆珠尓奴久 安布知乎宅尓 宇恵多良婆 夜麻霍公鳥 可礼受許武可聞

      (大伴書持 巻十七 三九一〇)

 

≪書き下し≫玉に貫(ぬ)く楝(あふち)を家に植ゑたらば山ほととぎす離(か)れず来(こ)むかも

 

(訳)薬玉(くすだま)として糸に貫く楝、その楝を我が家の庭に植えたならば、山に棲む時鳥がしげしげとやって来て鳴いてくれることだろうか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1348表①)」で紹介している。

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題詞は、「詠霍公鳥歌二首」<霍公鳥(ほととぎす)を詠(よ)む歌二首>である。

三九〇九歌もみてみよう。

 

◆多知婆奈波 常花尓毛歟 保登等藝須 周無等来鳴者 伎可奴日奈家牟

      (大伴書持 巻十七 三九〇九)

 

≪書き下し≫橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ

 

(訳)橘は、年中咲き盛りの花であったらなあ。そうなれば取り合わせの時鳥が橘に棲みつこうとしてやって来るはず、そうなったら、時鳥の声を聞かない日はないだろう。(同上)

 

左注は、「右四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持」<右は、四月の二日に、大伴宿禰書持、奈良(なら)の宅(いへ)より兄家持に贈る>である。

 

 弟書持の「霍公鳥を詠む歌二首」に対して家持は短い前文を添えて、三首書持に送っている。これもみてみよう。

 

「前文」は、「橙橘初咲霍公鳥飜嚶 對此時候詎不暢志 因作三首短歌以散欝結之緒耳」<橙橘(たうきつ)初めて咲き、霍鳥(くわくてう)飜(かけ)り嚶(な)く。この時候に対(むか)ひ、あに志を暢(の)べざらめや。よりて、三首の短歌を作り、もちて欝結(うつけつ)の緒(こころ)を散らさまくのみ>である。

(注)橙橘(たうきつ):橘を漢語風に言ったもの。「橙」はだいだいで、「橘」の一種。(伊藤脚注)

(注)霍鳥(くわくてう):霍公鳥の略。(伊藤脚注)

(注)この時期:家持は、春から夏にかけて特に感じやすい人であった。(伊藤脚注)

(注)うつけつ【鬱結】[名]:① ふさがり滞ること。② 気分が晴れ晴れしないこと。鬱屈。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

◆安之比奇能 山邊尓乎礼婆 保登等藝須 木際多知久吉 奈可奴日波奈之

       (大伴家持 巻十七 三九一一)

 

≪書き下し≫あしひきの山辺(やまへ)に居(を)ればほととぎす木(こ)の間(ま)立ち潜(く)き鳴かぬ日はなし

 

(訳)山の麓(ふもと)で暮らしているので、こちらは、時鳥、仰せのその時鳥が木々のあいだをくぐって、鳴かない日は一日とてありません。(同上)

(注)たちくく【立ち潜く】自動詞:(間を)くぐって行く。 ※「たち」は接頭語。(学研)

 

 

◆保登等藝須 奈尓乃情曽 多知花乃 多麻奴久月之 来鳴登餘牟流

      (大伴家持 巻十七 三九一二)

 

≪書き下し≫ほととぎす何(なに)の心ぞ橘の玉貫(ぬ)く月し来鳴き響(とよ)むる

 

(訳)そうはいっても、この時鳥はいったいどういうつもりなのか。橘の花を薬玉に通す月頃にばかりやって来て、声響かせて鳴きわたるとは。(同上)

 

 

◆保登等藝須 安不知能枝尓 由吉底居者 花波知良牟奈 珠登見流麻泥

       (大伴家持 巻十七 三九一三)

 

≪書き下し≫ほととぎす楝(あふち)の枝に行きて居(ゐ)ば花は散らむな玉と見るまで

 

(訳)時鳥、この時鳥が、仰せの楝の枝に飛んで行って留まったら、花は、さぞかしほろほろと散りこぼれることだろう。こぼれ落ちる玉のように。(同上)

 

左注は、「右四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持」<右は、四月三日に、内舎人(うどねり)大伴宿禰家持、久邇(くに)の京より報送弟(おとひと)書持に報(こた)へ送る>である。

(注)うどねり【内舎人】名詞:律令制で、「中務省(なかつかさしやう)」に属し、帯刀して、内裏(だいり)の警護・雑役、行幸の警護にあたる職。また、その人。「うとねり」とも。 ※「うちとねり」の変化した語。(学研)

 

 家持が勤務した恭仁京は、造営が始まったのは天平十二年(740年)である。天平十六年(744年)に難波宮を都に定められたので恭仁京は、わずか三年余という短い期間であった。

 

 恭仁京跡についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その182改)」で紹介している。

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―その1543―

●歌は、「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P32)万葉歌碑<プレート>(山上憶良

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P32)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陁飛那久尓

      (山上憶良 巻五 七九八)

 

≪書き下し≫妹(いも)が見し棟(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに

 

(訳)妻が好んで見た棟(おうち)の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。。妻を悲しんで泣く私の涙はまだ乾きもしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)楝は、陰暦の三月下旬に咲く、花期は二週間程度。筑紫の楝の花散りゆく様を見て、奈良の楝に思いを馳せて詠っている。

(注の注)あふち【楝/樗】: センダンの古名。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 この歌は、大伴旅人の妻が亡くなって以降の追善供養があった時に、憶良が旅人に贈った漢詩文と日本挽歌(七九四歌)と反歌(七九五~七九九歌)の反歌の一首である。

 

 日本挽歌(七九四歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その910)」で紹介している。

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七九八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その914)」で紹介している。

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 「あふち(楝)」は、 センダンの古名である。

センダンについては、「庭木図鑑 植木ペディア」に「暖地の海岸沿いや山地に自生するセンダン科の落葉樹。・・・開花は初夏。5月5日に必ず咲くという言い伝えもあるが、実際は地域によって5~6月。花はその年に伸びた枝葉の基部にまとまって咲くが、たいていは高い場所に咲くため観察しにくい。・・・センダンの古名はオウチ(アウチ)。その語源には諸説あるが、同じ頃に咲くフジに似た淡い花が咲く『淡藤(アワフジ)』が転訛したとする説、フジに似た花が仰ぐように咲く『仰藤(アオグフジ)』が転訛したとする説などがある。」と書かれている。



 

―その1544―

●歌は、「・・・あしひきのこの片山のもむ楡を五百枝剥き垂れ天照るや日の異に干し・・・」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P33)万葉歌碑<プレート>(乞食者の歌)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P33)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆忍照八 難波乃小江尓 廬作 難麻理弖居 葦河尓乎 王召跡 何為牟尓 吾乎召良米夜 明久 若知事乎 歌人跡 和乎召良米夜 笛吹跡 和乎召良米夜 琴引跡 和乎召良米夜 彼此毛 命受牟跡 今日ゝゝ跡 飛鳥尓到 雖置 ゝ勿尓到 雖不策 都久怒尓到   東 中門由 参納来弖 命受例婆 馬尓己曽 布毛太志可久物 牛尓己曽 鼻縄波久例 足引乃 此片山乃 毛武尓礼乎 五百枝波伎垂 天光夜 日乃異尓干 佐比豆留夜 辛碓尓舂 庭立 手碓子尓舂 忍光八 難波乃小江乃 始垂乎 辛久垂来弖 陶人乃 所作▼乎 今日徃 明日取持来 吾目良尓 塩柒給 腊賞毛 腊賞毛

     (乞食者の詠 巻十六 三八八六)

         ▼は、「瓦+缶」で「かめ)である。

 

≪書き下し≫おしてるや 難波(なにわ)の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隠(なま)りて居(を)る 葦蟹(あしがに)を 大君召すと 何せむに 我(わ)を召すらめや 明(あきら)けく 我が知ることを 歌人(うたひと)と 我(わ)を召すらめや 笛吹(ふえふ)きと 我を召すらめや 琴弾(ことひき)きと 我を召すらめや かもかくも 命(みこと)受(う)けむと 今日今日と 飛鳥(あすか)に至り 立つれども 置勿(おくな)に至り つかねども 都久野(つくの)に至り 東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ 参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば 馬にこそ ふもだし懸(か)くもの 牛にこそ 鼻(はな)縄(づな)はくれ あしひきの この片山の もむ楡(にれ)を 五百枝(いほえ)剥(は)き垂(た)れ 天照るや 日の異(け)に干(ほ)し さひづるや 韓臼(からうす)に搗(つ)き 庭に立つ 手臼(てうす)に搗き おしてるや 難波の小江(をえ)の 初垂(はつたり)を からく垂り来て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を 今日(けふ)行きて 明日(あす)取り持ち来(き) 我が目らに 塩(しほ)塗(ぬ)りたまひ 腊(きた)ひはやすも 腊ひはやすも

 

(訳)おしてるや難波(なにわ)入江(いりえ)の葦原に、廬(いおり)を作って潜んでいる、この葦蟹めをば大君がお召しとのこと、どうして私なんかをお召しになるのか、そんなはずはないと私にははっきりわかっていることなんだけど・・・、ひょっとして、歌人(うたひと)にとお召しになるものか、笛吹きにとお召しになるものか、琴弾きにお召しになるものか、そのどれでもなかろうが、でもまあ、お召しは受けようと、今日か明日かの飛鳥に着き、立てても横には置くなの置勿(おくな)に辿(たど)り着き、杖(つえ)をつかねど辿りつくの津久野(つくの)にやって来、さて東の中の御門から参上して仰せを承ると、何と、馬になら絆(ほだし)を懸けて当たり前、牛なら鼻綱(はなづな)つけて当たり前、なのに蟹の私を紐で縛りつけたからに、傍(そば)の端山(はやま)の楡(にれ)の皮を五百枚も剥いで吊(つる)し、日増しにこってりお天道(てんと)様で干し上げ、韓渡りの臼で荒搗(づ)きし、庭の手臼(てうす)で粉々の搗き、片や、事もあろうに、我が故郷(ふるさと)難波入江の塩の初垂(はつた)り、その辛い辛いやつを溜めて来て、陶部(すえべ)の人が焼いた瓶を、今日一走(ひとつばし)りして明日には早くも持ち帰り、そいつに入れた辛塩を私の目にまで塗りこんで下さって、乾物に仕上げて舌鼓なさるよ、舌鼓なさるよ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)おしてるや【押し照るや】分類枕詞:地名「難波(なには)」にかかる。かかる理由未詳。(学研)

(注)かもかくも 副詞:ああもこうも。どのようにも。とにもかくにも。(学研)

(注)ふもだし【絆】名詞:馬をつないでおくための綱。ほだし。(学研)

(注)さいずるや〔さひづる‐〕【囀るや】[枕]:外国の言葉は聞き取りにくく、鳥がさえずるように聞こえるところから、外国の意味の「唐(から)」、または、それと同音の「から」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)はつたり【初垂り】:製塩のとき最初に垂れた塩の汁。一説に、塩を焼く直前の濃い塩水。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)すえひと〔すゑ‐〕【陶人】:陶工。すえつくり。(weblio辞書 デジタル大辞泉) 堺市南部にいた須恵器の工人。

(注)腊(読み方 キタイ):まるごと干した肉。(weblio辞書 歴史民俗用語辞典)

 

 題詞は、「乞食者詠二首」<乞食者(ほかひひと)が詠(うた)ふ歌二首>である。

 

左注は、「右歌一首為蟹述痛作之也」<右の歌一首は、蟹(かに)のために痛みを述べて作る>である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1087)」で紹介している。

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もう一首の三八八五歌については、「同(その1499)」で紹介している。

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 「アキニレ」は、「東海地方以西の山野及び川原に自生するニレ科の落葉樹。・・・単なるニレという木はなく、一般的に『ニレ』という場合、本種ではなくハルニレを示すことが多い。ハルニレの開花、結実が春であるのに対し、本種は秋(9月頃)に開花、結実するためアキニレと呼ばれるようになった。」(庭木図鑑 植木ペディア)

 このことから、三八八六歌に詠まれている楡は、「アキニレ」と考えられる。



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 歴史民俗用語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「庭木図鑑 植木ペディア」