万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1594、1595、1596)―広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(1、2、3)―万葉集 巻一 九、巻二 一六六、巻二 一八五

―その1594―

●歌は、「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣我が背子がい立たせりけむ厳橿が本」である。

 

広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(1)万葉歌碑<プレート>(額田王

●歌碑(プレート)は、広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(1)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本

       (額田王 巻一 九)

 

≪書き下し≫莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣我(わ)が背子がい立たせりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)

 

(訳)静まり返った浦波をはるかに見放(みさ)けながら、我が背子(せこ)有間皇子(ありまのみこ)がお立ちになったであろう、この聖なる橿の木の根本よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

(注)上二句「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」は定訓がない。伊藤氏は、澤瀉久孝氏の試訓「静まりし浦波見放け」を支持されている。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その492)」で紹介している。

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 これまで各地の万葉植物園のプレートを見てきたが、なぜか、この公園のシンプルな歌碑に惹かれてしまうのである。凝ってるわけでもなく白いプレートに必要最小限の事が記載されているだけなのだが。

歌碑プレートの植物名は「かしのき・かし」、万葉集花名「かし」・現代花名「カシ」と書かれている。

 「カシ」については、万葉集では九歌の「厳橿」の他に「白橿」(巻十 二三一五歌)が詠われている。また「橿の実の」(巻九 一七三二歌)と枕詞として使われている。

 こちらをみてみよう。

 

◆足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎ゞ乎 雪落者  或云 枝毛多和ゝゝ

      (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一五)

 

 ≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば  或いは「枝もたわたわ」といふ

 

(訳)あしひきの山道のありかさえもわからない。白橿の枝も撓(たわ)むほどに雪が降り積もっているので。<枝もたわわに>(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たわたわ【撓 撓】( 形動ナリ ):たわみしなうさま。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その871)で紹介している。

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◆級照 片足羽河之 左丹塗 大橋之上従 紅 赤裳數十引 山藍用 摺衣服而 直獨 伊渡為兒者 若草乃 夫香有良武 橿實之 獨歟将宿 問巻乃 欲我妹之 家乃不知久

       (高橋虫麻呂 巻九 一七四二)

 

≪書き下し≫しなでる 片足羽川(かたしはがは)の さ丹()()りの 大橋の上(うへ)ゆ 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾引(すそび)き 山藍(やまあゐ)もち 摺()れる衣(きぬ)着て ただひとり い渡らす子は 若草の 夫(つま)かあるらむ 橿(かし)の実の ひとりか寝()らむ 問(と)はまくの 欲()しき我妹(わぎも)が 家の知らなく

 

(訳)ここ片足羽川のさ丹塗りの大橋、この橋の上を、紅に染めた美しい裳裾を長く引いて、山藍染めの薄青い着物を着てただ一人渡って行かれる子、あの子は若々しい夫がいる身なのか、それとも、橿の実のように独り夜を過ごす身なのか。妻どいに行きたいかわいい子だけども、どこのお人なのかその家がわからない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)「しなでる」は片足羽川の「片」にかかる枕詞とされ、どのような意味かは不明です。(「歌の解説と万葉集柏原市HP

(注)「片足羽川」は「カタアスハガハ」とも読み、ここでは「カタシハガハ」と読んでいます。これを石川と考える説もありますが、通説通りに大和川のことで間違いないようです。(同上)

(注)さにぬり【さ丹塗り】名詞:赤色に塗ること。また、赤く塗ったもの。※「さ」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)くれなゐの【紅の】分類枕詞:紅色が鮮やかなことから「いろ」に、紅色が浅い(=薄い)ことから「あさ」に、紅色は花の汁を移し染めたり、振り出して染めることから「うつし」「ふりいづ」などにかかる。(学研)

(注)やまあい【山藍】:トウダイグサ科多年草。山中の林内に生える。茎は四稜あり、高さ約40センチメートル。葉は対生し、卵状長楕円形。雌雄異株。春から夏、葉腋ようえきに長い花穂をつける。古くは葉を藍染めの染料とした。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)

(注)わかくさの【若草の】分類枕詞:若草がみずみずしいところから、「妻」「夫(つま)」「妹(いも)」「新(にひ)」などにかかる。(学研)

(注)かしのみの【橿の実の】の解説:[枕]樫の実、すなわちどんぐりは一つずつなるところから、「ひとり」「ひとつ」にかかる。(goo辞書)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1155)」で紹介している。

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―その1595―

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(2)万葉歌碑<プレート>(大伯皇女)

 

●歌碑(プレート)は、広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(2)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

       (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

歌碑プレートの植物名は「あせび(馬酔木)」、万葉集花名「あしび」・現代花名「アセビ」と書かれている。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1209)」で紹介している。

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―その1596―

●歌は、「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」である。

 

広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(3)万葉歌碑<プレート>(日並皇子尊宮舎人)

●歌碑(プレート)は、広島県呉市倉橋町 万葉植物公園(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨

        (日並皇子尊宮舎人 巻二 一八五)

 

≪書き下し≫水(みづ)伝(つた)ふ礒(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂(も)く咲く道をまたも見むかも

 

(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いそ【磯】名詞:①岩。石。②(海・湖・池・川の)水辺の岩石。岩石の多い水辺。(学研)

(注)うらみ【浦廻・浦回】名詞:入り江。海岸の曲がりくねって入り組んだ所。「うらわ」とも。(学研)

(注)茂く>もし【茂し】( 形ク ):草木の多く茂るさま。しげし。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版)                           

 

歌碑プレートの植物名は「やまつつじ・つつじ各種」、万葉集花名「つつじ」・現代花名「ツツジ」と書かれている。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その590)」で紹介している。

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 歌碑プレート(2)の一六六歌と同(3)一八五歌を含む歌群を追ってみよう。

一六三から一六六歌の歌群は、「大津皇子の挽歌群」と言われる。

一六七から一七〇歌の歌群の題詞は、「日並皇子尊(ひなみしみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あわ)せて短歌」である。

そして一七一から一九三歌の歌群「皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二十三首」と続いている。

大津皇子はいわば謀反の罪で刑死させられているにもかかわらず収録され、日並皇子尊の挽歌の前に位置している。

これについて高橋睦郎氏は、「万葉集の詩性」(中西 進編著 角川新書)の「いや重(し)く謎」の稿で「持統皇太子草壁(くさかべ)皇子、別名日並(ひなし)皇子の挽歌成立のためには、草壁の立皇子のために持統が死なせしめた大津皇子の挽歌が成立しなければならない。・・・(草壁皇子の挽歌群は)草壁に献(ささ)げられるとともに草壁立太子の犠牲になった大津にも、時代を遡って有間皇子にも・・・献げられていると考えるべきではなかろうか。原万葉集に大津挽歌群や有間挽歌群、そして雄略御製が増補され元明万葉が編集された意味はそこにあった、と考えるべきではないだろうか。」と書かれている。

同氏は、万葉集は、下命・庇護者によって、持統万葉、元明万葉、元正万葉、早良(さわら)万葉と仮称されているとし、「現『万葉集』(の)・・・第二首から第五十三首まで(が)持統王朝讃歌といえるものだ。」と書かれている。

さらに、「・・・持統王朝を正統化するための持統王朝讃歌である原万葉集が、編集完了後に讃歌だけではじゅうぶんに有効ではないと意識されてくる。そこで讃歌成立のために排除された王統挽歌群を増補する。つぎに王統挽歌群を成立させるためには王統成立のために排除された敗者側の挽歌の増補が必須であることが認識されてくる。」と書かれている。

さらに、このような過程を経て、「挽歌」という部立ができ、挽歌に対応する「相聞」が立てられ、「そこから翻って王朝讃歌が挽歌でも相聞でもないということで雑歌と名付けられる。こうして『万葉集』の三大部立、雑歌・相聞・挽歌が生まれた。」と書かれている。

万葉集の深淵を覗く時、まさにこちらを覗かれているのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「高橋睦郎氏稿『いや重(し)く謎』(「万葉集の詩性」 中西 進 編著 角川新書)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 三省堂大辞林 第三版)」

★「goo辞書」

★「柏原市HP