万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1617)ー広島県呉市倉橋町宮浦 桂濱神社―万葉集 巻十五 三六二一

●歌は、「我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる」である。

広島県呉市倉橋町宮浦 桂濱神社 万葉歌碑<神社説明案内板>(遣新羅使

●歌碑(神社説明案内板)は、広島県呉市倉橋町宮浦 桂濱神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆和我伊能知乎 奈我刀能之麻能 小松原 伊久与乎倍弖加 可武佐備和多流

       (遣新羅使 巻十五 三六二一)

 

≪書き下し≫我(わ)が命(いのち)を長門(ながと)の島の小松原(こまつばら)幾代(いくよ)を経(へ)てか神(かむ)さびわたる

 

(訳)我が命よ、長かれと願う、長門の島の小松原よ、いったいどれだけの年月を過ごして、このように神々(こうごう)しい姿をし続けているのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)わがいのちを【我が命を】[枕]:わが命長かれの意から、「長し」と同音を含む地名「長門(ながと)」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)かみさぶ【神さぶ】自動詞:①神々(こうごう)しくなる。荘厳に見える。②古めかしくなる。古びる。③年を取る。 ※「さぶ」は接尾語。古くは「かむさぶ」。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

 

 三六一七から三六二一歌の歌群の題詞は、「安藝國長門嶋舶泊礒邊作歌五首」<安芸(あき)の国の長門(ながと)の島にして磯部(いそへ)に舶泊りして作る歌五首>である。

(注)安芸の国:広島県西部。(伊藤脚注)

(注)長門(ながと)の島:呉市の南の倉橋島。(伊藤脚注)

 

 この歌を含む三六一七から三六二一歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1593)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

桂浜神社参道石段



 

呉市倉橋町万葉植物公園⇒桂浜神社

 

 万葉植物公園をあとにし桂浜神社へ。

 桂浜神社参道石段脇の「桂浜神社説明案内板(倉橋町教育委員会)」に、巻十五 三六二一歌が記されている。

 この説明案内板によると、「神社の創建の年代は詳細ではない。しかし天平八年(七三六)遣新羅使大石蓑麿卿の一行が下向の時倉橋の海上に泊船し詠まれた時の一首『わがいのちを長門の島の小松原幾代をへてか神さびわたる(万葉集 巻十五)』これによっても当時既にこの地に社は鎮座していたと思われる(後略)」と書かれている。

 「広島県文化財 - 桂濱神社本殿」(ホットライン教育ひろしま広島県教育委員会HP>)には、「戦国時代、文明12年(1480)再建の神社建築。桂が浜に面した小高い丘陵上に建っている。前室付の三間社流造、こけら葺で、庇(前室)の三方に縁を巡らす。身舎(もや),庇はいずれも丸柱からなり、身舎、庇とも板張の床で、身舎は一段高くなっている。

身舎正面に祭壇を構え玉殿三棟を安置している。この玉殿は一間社見世棚造(いっけんしゃみせだなづくり)、薄長板葺の珍しいもので、本殿建立と同時期のものと考えられる。

本殿は地方色が濃厚な建物で、全体に木細く、簡素な作りではあるが意匠的にも優れた建物である。」と書かれている。

 万葉集の歌に、神社の由緒が求められるのは珍しいことではなかろうか。 

桂浜神社社殿



 神社の前は、県道35号線(音戸倉橋線)と松林を挟んで「桂浜」が広がっている。

 その桂浜に面して松林の切れ目あたりに「萬葉集史蹟長門島之碑」が建てられている。

 この碑には、三六一七から三六二四歌が刻されている。内容は次稿で紹介いたします。

神社から海岸を望む

 

 

 これまでに巡って来た「遣新羅使」の歌碑をみてみよう。(撮影日順、同一歌の場合、歌は省略させていただきました。)

 

■巻十五 三六〇二■

◆安乎尓余志 奈良能美夜古尓 多奈妣家流 安麻能之良久毛 見礼杼安可奴加毛 

       (遣新羅使 巻十五 三六〇二

 

≪書き下し≫あをによし奈良の都にたなびける天(あま)の白雲(しらくも)見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)青土香る奈良の都にたなびいている天の白雲、この白雲は見ても見飽きることがない。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

20190305撮影    奈良市二条大路南 奈良市庁舎前庭

 

 

■巻十五 三五九〇■

◆伊毛尓安波受 安良婆須敝奈美 伊波祢布牟 伊故麻乃山乎 故延弖曽安我久流

       (遣新羅使 巻十五 三五九〇)

 

≪書き下し≫妹(いも)に逢(あ)はずあらばすべなみ岩根(いわね)踏む生駒の山を越えてぞ我(あ)が來(く)る

 

(訳)あの子に逢わないでいるとどうにもやるせなくて、岩を踏みしめる生駒の山なのだが、その山をうち越えて私は大和へと急いでいる。

(注)すべ(を)なみ【術をなみ】:どうしようもなく(学研)

20190426撮影 生駒市俵口町 生駒山麓公園 

 

■巻十五 三五九〇■

20200309撮影 生駒市高山町 高山竹林園

 

 

 

■巻巻十五 三五八九■

由布佐礼婆 比具良之伎奈久 伊故麻山 古延弖曽安我久流 伊毛我目乎保里

       (秦間満 巻十五 三五八九)

 

≪書き下し≫夕さればひぐらし来(き)鳴(な)く生駒山越えてぞ我(あ)が來る妹が目を欲(ほ)り

(訳)夕方になると、ひぐらしが来て鳴くものさびしい生駒山、生駒の山を越えて私は大和へと急いでいる。もう一目あの子に逢いたくて。

(注)めをほる【目を欲る】:連語 見たい、会いたい。(学研)

20190426撮影    生駒市俵口町生駒山麓公園 

 

■巻十五 三五八九■

20200309撮影    生駒市小瀬町 大瀬中学校

 

■巻十五 三五八九■

20200319撮影    東大阪市東豊浦町 枚岡公園

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「広島県文化財」 (ホットライン教育ひろしま 広島県教育委員会HP)

★「桂浜神社説明案内板」 (倉橋町教育委員会