●歌は、「月読の光を清み神島の磯みの浦ゆ舟出す我れは」である。
●歌をみていこう。
◆月余美能 比可里乎伎欲美 神嶋乃 伊素末乃宇良由 船出須和礼波
(遣新羅使人等 巻十五 三五九九)
≪書き下し≫月読(つくよみ)の光を清み神島(かみしま)の礒(いそ)みの浦ゆ船出(ふなで)す我(わ)れは
(訳)お月さまの光が清らかなので、それを頼りに、神島の岩の多い入江から船出をするのだ、われらは。(同上)
(注)つくよみ【月夜見・月読み】名詞:月。「つきよみ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)神島:備後(きびのみちのしり)広島県東部 ※巻十三 三三三九歌の題詞に「備後の国の神島の浜にして」とある。
(注の注)三三三九歌の題詞は、「備後(きびのみちのしり)の国の神島(かみしま)の浜にして、調使首(つきのおみのおびと)、屍(しかばね)を見て作る歌一首 幷(あは)せて短歌」である。三三三九から三三四三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その804)」で紹介している。
また三五九九歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その803)」で、岡山県笠岡市神島 天神社にある歌碑も紹介している。
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三五九四から三六〇一歌の歌群の左注は、「右八首乗船入海路上作歌」<右の八首は、船に乗りて海に入り、路の上(うへ)にして作る歌>とある。難波津から広島県鞆の浦までの航海上に詠った歌である。
この歌群の歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その623)」で紹介している。
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「神島」については、三三三九歌では、「備後國の神島の浜」とあるので今の福山市神島町で間違いはないと思われるが、三五九九歌の「神島」については、「備後の神島(福山市神島)」と「備中の神島(笠岡市神島)」説がある。備中神島と備後神島は距離にして約14kmの隔たりである。ここでは両説があるという紹介にとどめます。
■糸碕神社⇒西神島八幡神社
家を出てからすでに550km、京都から東京までの距離を運転したことになる。当初の計画では鞆の浦も巡って福山市内のホテルに入る予定であったが、これまでの歌碑の探索に時間がかかったこともあり、さすがに疲れはピークに。やむなく予定を見直し、西神島八幡神社の後は、蔵王憩いの森で1日目は打ち止めにすることにした。
糸碕神社からは国道2号線をひたすら走る。目的地付近まで来ると左折続いて左折の指示。急に1車線の細い道に。ナビに従うしかない。しばらく進むと右手に鳥居が見えてくる。神社鳥居の前では造成作業をやっている。鳥居ぎりぎりで車を境内に滑り込ませる。
歌碑を見るとなぜか元気が出てくる。参道を歩き本殿へ。古びた社殿が佇んでいる。
今は埋め立てられているが、万葉時代は、この辺りは海で遣新羅使の船が立ち寄っていたのかもしれないと思うとわくわくしてくる。
しかし、今の福山市の地図をみてもこの界隈は、海であったとは想像できない。
そこで埋め立ての歴史など、あちこちとデータをあたってみた。
「(第6回 日本土木史研究発表会論文集1986年6月)福山市の土地造成と区画整理の過程について 福山大学 正会員 三輪 利英 福山大学 正会員 近藤 勝直 福山市都市部 正会員 原田 正道」という論文の資料に「図-2 福山市の土地造成過程」と題した地図が描かれていた。そこに「上古の海岸線」が書かれており、今のグーグルマップと照らし合わせると、「西神島八幡神社」あたりに「神島」があったと考えられるのである。
これで、漸く万葉の時代の「神島」にたどり着けたのである。
「古代の福山は、現在の市の中心部のほとんどが海の中であり、芦田川流域は新市町、府中市あたりまで深く入り込んだ海で、「穴の海」と呼ばれていました。
古くから潮待ち風待ちの港として栄えた鞆の浦は、瀬戸内海の中央、沼隈半島の先端に位置し、万葉集でも大伴旅人の歌にも詠まれました。
平安のころから芦田川に三角州が形づくられ、鎌倉時代には、今は芦田川の中洲に眠る草戸千軒町が明王院の門前町として栄えていました。
江戸時代に入り、1619年(元和5年)、水野勝成が備後10万石の領主となり、3年後に福山城を築き、地名を「福山」と名づけました。その後、芦田川の河口の三角州の干拓や、日本で5番目に古い水道をひくなど城下町としての整備を進めました。
1889年(明治22年)の市町村制により福山町となり、地方行政の中心的役割を果たし、1891年(明治24年)山陽鉄道開通などを契機にまちの基盤が形成されました。」
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「第6回 日本土木史研究発表会論文集 (1986年6月))
★「福山市HP」