●歌は、「海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも」である。
●歌碑は、広島県尾道市因島 文学の散歩道・つれしおの石ぶみ にある。
●歌をみていこう。
◆海原乎 夜蘇之麻我久里 伎奴礼杼母 奈良能美也故波 和須礼可祢都母
(遣新羅使 巻十五 三六一三)
<書き下し>海原(うなはら)を八十島隠(やそしまがく)り来(き)ぬれども奈良の都は忘れかねつも
(訳)海原を、たくさんの島々のあいだを縫いながらはるばる漕いでやって来たけれど、奈良の都は忘れようにも忘れられない。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)やそしま【八十島】名詞:たくさんの島。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)しまがくる【島隠る】動:のかげに隠れる。また、島のかげに退避する。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注の注)八十島隠り:多くの島々に漕ぎ隠れて。(伊藤脚注)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1622)で紹介している。
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「八十島隠(やそしまがく)り来(き)ぬ」とあるので、遣新羅使船は、因島も包含されている島々を航行してきたのだろう。万葉時代の船で難波津から因島界隈まで来られると考えるだけでも驚きである。まして、この先、役目を担い新羅まで行くのである。
「奈良の都への思い」、「家族への思い」は、航海の安全性を考えると歌に表された思いを詠った箇所は己の心情の氷山の一角でしかないだろう。
淡々と詠っているが故に、逆にその思いの深さ、強さが響いてくる。
「備後灘にみる万葉の旅びと」(備陽史探訪の会HP)には、「鞆の浦からの長井の浦までの海上には島が多く、田島、横島、百島、加島、向島、岩子島、因島、宿弥島、細島、佐木島、小佐木島などなど大小の島が浮かび、その景観のすばらしさは、まさに『八十八島』というにふさわしく、万葉びとの日を見はらせたにちがいない。」と詳しく書かれている。
さらに「瀬戸内の船旅はひと月にも及んだ。舟底の浅い木船に身を委ね、人力で潮流の変化に抗して進まねばならなかった。遣唐使も、遣新羅使人らも太宰府へ赴く官人や防人も、望郷や妻恋いの情をつのらせながら、みなこの苦労を味わったらしい。」とも書かれている。
■ホテル⇒文学の散歩道・つれしおの石ぶみ
二日目のトップは、文学の散歩道・つれしおの石ぶみの万葉歌碑である。
瀬戸内しまなみ海道を因島に向け突っ走る。因島大橋、周りの海上風景を楽しみながら。因島南ICを出て一般道へ。一般道では、「因島公園」の案内標識もばっちりである。
海岸縁を走り土生港あたりまで来る。ナビに従って進むが、車が侵入できそうもない街中の道を進めとの指示である。行っては何とか戻り、再挑戦するもどこからも恐怖の細道を進めという。ここまで順調に来られたのであるが・・・。
土生港の駐車場に車を停める。1階に観光案内所があったので、因島公園への行き方を尋ねる。詳しい地図を出して説明していただく。
途中、ナビでは街中の細い道しか出てこない旨も話してみた。
すると、係りの人に「『ホテルいんのしま』でインプットされたら良いですよ。ホテルの目の前が、因島公園と文学の散歩道の入口になっています。」と教えていただいた。
車に戻り、インプットし直す。街中の細い道を行けというような指示はでない。素直に指示に従いつづら折れの山道を上る。
確かに、「ホテルいんのしま」の前に鯖大師の立像が。
鯖大師の立像に向かって左手後ろに「つれしおの石ぶみ(文学の散歩道)」の碑があった。
そこから急な上り道になっている。万葉の歌を初め小林一茶、志賀直哉等々文学者の碑が建てられて頂上まで続いている。ありがたいことに、お目当ての万葉歌碑は入口すぐのところにあった。正直ほっとした。
ナビに「近くの別の目標」をインプットする。目からウロコである。
「鯖大師」のプチパークを回り込んで、文学の散歩道に入る。「つれしおの石ぶみ」の碑がある。すぐ後ろに「倭寇の船」のレリーフ的石碑が建てられている。万葉の歌に因んで、「遣新羅使も船」と思いきや、さにあらず、因島と倭寇は切っても切れないからだろう。
歌碑(三六一三歌)の説明案内板に「・・・西国へ赴任する防人の一行が、難波津を船出して潮と風にまかせた船旅を続け、因島の東海岸に沿い布刈瀬戸を抜け、糸崎へ仮泊のとき、来し方を振り返り、奈良の都へ望郷の思いをはせる。」と書かれているが、この歌は遣新羅使の一行であり違和感を覚えたのが残念である。」
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「備後灘にみる万葉の旅びと」 (備陽史探訪の会HP)