―その1717―
●歌は、「ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く」である。
●歌碑(プレート)は、東山魁夷せとうち美術館前庭広場小径(4)にある。
●歌をみていこう。
題詞「山部宿祢赤人作歌二首幷短歌」のなかの前群の反歌二首のうちの一首である。前群は吉野の宮を讃える長歌と反歌二首であり、後群は天皇を讃える長歌と反歌一首という構成をなしている。
◆烏玉之 夜乃深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴
(山部赤人 巻六 九二五)
≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)の更けゆけば久木(ひさぎ)生(お)ふる清き川原(かはら)に千鳥(ちどり)しば鳴く
(訳)ぬばたまの夜が更けていくにつれて、久木の生い茂る清らかなこの川原で、千鳥がちち、ちちと鳴き立てている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)ぬばたま:黒い玉の意で、ヒオウギの花が結実した黒い実をいう。ヒオウギはアヤメ科の多年草で、アヤメのように、刀形の葉が根元から扇状に広がっている。この姿が、昔の檜扇に似ているのでこの名がつけられたという。
(注)ひさぎ:植物の名。キササゲ、またはアカメガシワというが未詳。(コトバンク デジタル大辞泉)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その728)」で紹介している。
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歌碑(プレート)が立てられている小路を西に進めば「沙弥島」に通じている。
「沙弥島」について「この島の特徴はおびただしい古墳である。西の方に吉野山と名付けられる山があり、その一帯に多くの古墳がある。」(梅原猛著「水底の歌 柿本人麿論」(新潮文庫)
古墳の存在は、流人とはいえ貴族階級の都人を手厚く葬ったと考えられる。島の山に「吉野」があるのは、都を偲んでつけられたのかもしれない。ここに流されてきた流人も、「吉野山」と聞き、少しは心和ませたのであろう。
吉野讃歌の歌碑(プレート)は、こういったことを意識して立てられたのであろうか。
―その1718―
●歌は、「昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ」である。
●歌碑(プレート)は、東山魁夷せとうち美術館前庭広場小径(5)にある。
●歌をみていこう。
◆晝者咲 夜者戀宿 合歡木花 君耳将見哉 和氣佐倍尓見代
(紀女郎 巻八 一四六一)
≪書き下し≫昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ね)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ
(訳)昼間は花開き、夜は葉を閉じ人に焦がれてねむるという、ねむの花ですよ。そんな花を主人の私だけが見てよいものか。そなたもご覧。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)きみ【君・公】名詞:①天皇。帝(みかど)。②主君。主人。③お方。▽貴人を敬っていう語。④君。▽人名・官名などの下に付いて、「…の君」の形で、その人に敬意を表す。(学研) ここでは、②の意
(注)わけ【戯奴】代名詞:①私め。▽自称の人称代名詞。卑下の意を表す。②おまえ。▽対称の人称代名詞。目下の者にいう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)さへに 分類連語:…までも。▽添加の意を表す。 ⇒なりたち:副助詞「さへ」+助詞「に」(学研)
ある意味女王様の目線で見下したような歌であるが、逆にかわいらしく、お茶目な感じがあふれ出ている。惚れ惚れする歌である。
一四六〇、一四六一歌の題詞は、「紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首」<紀女郎(きのいらつめ)大伴宿禰家持に贈る歌二首>である。続く一四六二、一四六三歌の題詞は、「大伴家持贈和歌二首」<大伴家持、贈り和(こた)ふる歌二首>である。
この歌ならびに紀女郎の歌十二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1114)」で紹介している。
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女郎と家持の贈答歌一四六〇から一四六三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その487)」で紹介している。
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―その1719―
●歌は、「ほととぎす来鳴き響もす卯の花の伴にや来しと問はましものを」である。
●歌碑(プレート)は、東山魁夷せとうち美術館前庭広場小径(6)にある。
●歌をみていこう。
◆霍公鳥 来鳴令響 宇乃花能 共也来之登 問麻思物乎
(石上堅魚 巻八 一四七二)
≪書き下し≫ほととぎす来鳴き響(とよ)もす卯(う)の花の伴(とも)にや来(こ)しと問はましものを
(訳)時鳥が来てしきりに鳴き立てている。お前は卯の花の連れ合いとしてやって来たのかと、尋ねたいものだが。(同上)
(注)卯の花の伴にや来しと:うつぎの花の連れ合いとして来たのかと。時鳥を、妻を亡くした大伴旅人に見立てている。
題詞は、「式部大輔石上堅魚朝臣歌一首」<式部大輔(しきぶのだいぶ)石上堅魚(いそのかみのかつを)朝臣(あそみ)が歌一首>である。
左注は、「右神龜五年戊辰大宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉 于時 勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣大宰府弔喪幷賜物也 其事既畢驛使及府諸卿大夫等共登記夷城而望遊之日作此歌」<右は、神亀(じんき)五年戊辰(つちのえたつ)大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)が妻大伴郎女(おほとものいらつめ)、病に遇(あ)ひて長逝(ちやうせい)す。その時に、勅使式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣(つか)はして、喪(も)を弔(とぶら)ひ幷(あは)せて物を賜ふ。その事すでに畢(をは)りて、駅使(はゆまづかひ)と府の諸卿大夫等(まへつきみたち)と、ともに記夷(き)の城(き)に登りて望遊(ぼういう)する日に、すなはちこの歌を作る>とある。
(注)神亀五年:728年
(注)勅使:三位以上の人が父母・妻などを喪った時には、勅使が派遣される。大伴旅人は正三位。
(注)はゆまづかひ【駅使ひ】名詞:「はゆま」を使って旅行する公用の使者。「はゆまつかひ」とも。(学研)
(注の注)はゆま【駅・駅馬】:奈良時代、旅行者のために街道の駅に備えてあった馬。 公用の場合は駅鈴をつけた。 伝馬(てんま)。 「はやうま(早馬)」の変化した語。(学研)
(注)きいじょう(基肄城):今の佐賀県三養基みやき郡基山きやま町から福岡県筑紫野市にかけてあった朝鮮式山城。665年、大宰府の防備のために、北側の大野城とともに造られた。記夷城。椽城きじよう。(コトバンク 大辞林 第三版)
歌は勿論、左注が万葉集に記録されていることに驚きを隠しえない。当時の風習など生きた歴史書といっても過言ではない。万葉集の奥の深さに改めて魅せられるのである。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その896)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」