万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1723~1725)―東山魁夷せとうち美術館前庭広場小径(10)~(12)―万葉集 巻十七 三九七一、巻十八 四一〇九、巻二十 四四四八

―その1723―

●歌は、「山吹の茂み飛び潜くうぐひすの声を聞くらむ君は羨しも」である。

東山魁夷せとうち美術館前庭広場小径(10)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、東山魁夷せとうち美術館前庭広場小径(10)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆夜麻扶枳能 之氣美登眦久ゝ 鸎能 許恵乎聞良牟 伎美波登母之毛

       (大伴家持 巻十七 三九七一)

 

≪書き下し≫山吹の茂み飛(と)び潜(く)くうぐひすの声を聞くらむ君は羨(とも)しも

 

(訳)山吹の茂みを飛びくぐって鳴く鴬(うぐいす)の、その声を聞いておられるあなたは、何と羨(うらや)ましいことか。(同上)

 

家持は、越中に赴任して初めて迎えた新春であったが、二月下旬に病に倒れたのである。二月の二十日の三九六二歌の題詞に、「たちまちに枉疾(わうしつ)に沈み、ほとほとに泉路(せんろ)に臨む・・・」とある。「枉疾」の「枉」には、道理をゆがめる等の意味があるから、思いもかけない煩わしい病にかかり、「泉路」(黄泉へのみち。死出の旅路。<goo辞書>)をさまようほどの不安感にさいなまれていることがわかる。

二週間程度の闘病であったとはいえ、熱や食欲不振などに苛まれ、単身赴任であるが故の不安感は想像がつく。小生も単身赴任で経験があるが、水一杯飲むにしても、台所まで這って行かなければならない。病に関する余計なことまで考えては奈落の底まで落ちて行くのである。増幅する不安感。

 

ましてや万葉の時代、今のような携帯もなければ、医療も発達していない。家持は、病床にあり不安と悲しみのなか歌を作り池主に贈っている。この気力たるやさすがである。

 

その時の家持と池主のやりとりは次の様に三月五日まで及んでいる。

 

天平十九年二月二十日、大伴家持→大伴池主、病に臥して悲傷しぶる歌一首(三九六二歌)ならびに短歌(三九六三、三九六四歌)

◇同二月二十九日、家持→池主 書簡ならびに悲歌二首(三九六五.三九六六歌)

◇三月二日、池主→家持 書簡ならびに歌二首(三九六七、三九六八歌)

◇三日、家持→池主 書簡ならびに短歌三首(三九六九~三九七二歌)

◇四日、池主書簡ならびに七言漢詩

◇五日、池主→家持 書簡ならびに歌一首(三九七三歌)幷せて短歌(三九七四・三九七五歌)

◇五日、家持→池主、書簡、七言一首ならびに短歌二首(三九七六、三九七七歌)

 

 三九七一歌は、三日で、池主の二日の三九六八歌(うぐひすの来(き)鳴く山吹うたがたも君が手触れず花散らめやも)に対する答えとして詠っている。

 

 同様に三九七〇(あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我れ恋ひめやも)歌は、三九六七歌(山峽に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ)に答えている。

 

 三九六九~三九七二歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その854)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 三九六七・三九六八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その959)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1724―

●歌は、「紅はうつろふものぞ橡のなれにし衣になほしかめやも」である。

東山魁夷せとうち美術館前庭広場小径(11)万葉歌碑<プレート>(大伴家持



●歌碑(プレート)は、東山魁夷せとうち美術館前庭広場小径(11)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母

       (大伴家持 巻十八 四一〇九)

 

≪書き下し≫紅(くれなゐ)はうつろふものぞ橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ)になほしかめやも

 

(訳)見た目鮮やかでも紅は色の褪(や)せやすいもの。地味な橡(つるばみ)色の着古した着物に、やっぱりかなうはずがあるものか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)紅:紅花染。ここでは、遊女「左夫流子」の譬え

(注)橡(つるはみ)のなれにし衣(きぬ):橡染の着古した着物。妻の譬え

(注)つるばみ【橡】名詞:①くぬぎの実。「どんぐり」の古名。②染め色の一つ。①のかさを煮た汁で染めた、濃いねずみ色。上代には身分の低い者の衣服の色として、中古には四位以上の「袍(はう)」の色や喪服の色として用いた。 ※ 古くは「つるはみ」。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その834)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 遊行女婦に接するにあたり、家持は文才のある女婦の歌は万葉集に収録するなどしているが、部下の尾張少咋を「さどはせ」た左夫流子には容赦ないようである。

 遊行女婦の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1721)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

―その1725―

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

東山魁夷せとうち美術館前庭広場小径(12)万葉歌碑<プレート>(橘諸兄

●歌碑(プレート)は、東山魁夷せとうち美術館前庭広場小径(12)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

       (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その967)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

■■桜井市吉備池ならびに橿原市万葉歌碑巡り■■

 8月29日にブログ(その1713)「東山魁夷せとうち美術館前庭の歌碑(プレート):中大兄皇子 巻一 十三歌」について書こうとした時、橿原市白橿町近隣公園の歌碑が頭に浮かび前回紹介事例としようとした。

 調べてみると、この歌については、2019年5月2日作成のブログ「桧原井寺池畔の同歌の歌碑」しかリストに出てこない。

 橿原市の万葉歌碑リストの資料メモを探し出してチェックしてみると6月18日に巡った、⑦南浦町古池、⑩畝尾都多本神社、⑪天香具山、⑫天香山神社、⑭紀寺跡、㉑白橿町近隣公園のデータが完全に抜け落ちていることが分かった。

 もう一度写真も含め取り直そうと計画を立てた。

 桜井市吉備池の万葉歌碑も一度トライしているが果たせなかったので、今回の計画に組み入れたのである。

 天気予報を見て「曇り一時雨」を信じて決行した。結局は歌碑巡りの間ずっと降っていたのである。

 歌碑の紹介は後日のブログで行います。

 

■自宅→吉備池■

 先達のブログなどから、吉備池の北西の土手にあることを確認、北西角に近い空き地に車を滑り込ませる。

史跡 吉備池廃寺跡案内図

 北西角の上に歌碑がある。胸躍る気持ちで近づくも草ぼうぼうの状態である。土手に上がるルートも見つけられない。

 結局、前回トライした吉備春日大社前の道から土手に上がる。そこから右手に進む。幸いに雨は小降りになっているが、進めば進むほどズボンの先から濡れて来る。北西コーナー部に石碑の頭が二つ並んでいるのが、草の間から見えた。足で草をかき分け踏みしめ道を作る。ようやく大津皇子の歌碑と対面することが出来た。そこから西に進めば大伯皇女の歌碑があるが、雨の中この草むら相手に突進することはあきらめる。葛に覆われた歌碑であろうものを写真に収めて次の目的地に向かうことにする。

葛に覆われた歌碑?

 冬場の草が枯れた時が狙い目か。

 

■吉備池→天香具山・天香山(あまのかぐやま)神社■

 前回同様「香具山観光トイレ駐車場」に車を停める。結構きつい上りであるので、家内は車で待機することに。

 傘をさして香具山万葉歌碑を目指す。息が切れる。体力が落ちていることを直感する。短い距離であるが、やっとの思いで歌碑と再会する。

 そこから山麓を周る道を天香山(あまのかぐやま)神社に向かう。途中の白雲に裾野を覆われた二上山の景色に出会う。

二上山遠望



 

■天香具山・天香山(あまのかぐやま)神社→古池■

 ルートが頭に入っていると効率よく周れる。「万葉の森」入口付近のスペースに車を停め池の東側の狭い道を進み歌碑と再会。

古池からの耳成山遠望


■古池→畝尾都多本神社■

 鳥居近くの歌碑と再会。

畝尾都多本神社


■畝尾都多本神社→紀寺跡■

 前回はあちこちと探し回ったことを思いだす。明日香テニスコートの駐車場の一番奥に車を停める。木々の隙間に歌碑が待っていてくれている。

 

■紀寺跡→白橿近隣公園■

 沼山古墳の道しるべ通りに進む。長い石段を上ったところに歌碑が立てられている。この歌碑のお蔭で大津皇子の吉備池歌碑に巡り合ったようなものである。感謝、感謝、感謝。

この石段の上の右手に歌碑がある


 午前中にはすべてを巡り終えた。せっかくなので橿原考古学研究所附属博物館の「発掘調査速報展」・「常設展」を見てきたのである。

 この博物館はこれまでにも幾度となく訪れているが、その時々の発見が、また来ようという起爆材になるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「橿原の万葉歌碑めぐり」 (橿原市